念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

現場に来ておられます

 「何も知らずにそんなこと言って。現場を見てから言ってくださいよ、わかってないでしょ!」

と最前線で働く社員が本部に対して言うとすれば、現場と本部に溝というか距離感があるというか、まあそれはうまくいっていない会社でしょう(私が言ったりします…。たまにですが…)。

 阿弥陀仏がただ今救うと願われているということは、阿弥陀仏が私の目の前に来ておられるということです。距離はありません。そうでなければ救うのに時間がかかることになってしまいます。

 「阿弥陀仏、ここを去ること遠からず」(観無量寿経)です。

 南無阿弥陀仏という言葉となって、すぐそこで、ただ今救うと呼びかけられています。だから遠慮せずまかせきることです。

技術の進歩

 技術の進歩で、以前ならば検出されなかったような微量のものまで検出されるようになり、当局の指示もあって、このご時世、過剰かと思える対応に追われる現場の姿があります。

 しかし、決まったことであれば誠意を持って対応していくしかありません。

 さらに、今後出てくる新たな情報を注視していかねばなりません。そうなると、また違った対応をとる必要が出てくるかも…。

 これが正解、と言い切れない難しい問題が増えているように感じます。

懺悔(さんげ)

 南無阿弥陀仏のはたらきを聞くようになったのも、聞きて疑心あること無し(他力の信心)となったのも、その信心がまったく崩れず相続しているのも、すべて南無阿弥陀仏のはたらきです。

 どうしても異安心を耳にすると沸き立つ思いにかられることがあります。それでグサッと書いたり。今後もつぶやくでしょう。

 でも待てよ、と。そんな自分も以前は聞き間違えていたではないか。

 懺悔させてもらえる身に救って頂いたことを感謝しなければと思います。なむあみだぶつ。

宿善について

 10月7日、「私の前に道はない」のタイトルでも書きました。

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道があったとすれば、救われて振り返る程度のもの。親鸞聖人の三願転入の文もそうですよ。

南無阿弥陀仏においては道など元より無いですからね。

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 ついでに言えば、「宿善」についても同じです。振り返るものです。

 異説があったので、まじめに一度だけ書いておきます。

 「宿善」を、あたかも「救われるための私の善行」であるかのように、におわせながら話をする人がいます。

 「宿善を厚くするように」 え?! 言い換えれば、

 「私の前に道がある」ええ?!?(数増)まさに未来形…。

 親鸞聖人の著作には「宿善」という言葉自体が無かったかと思います。宿縁という言葉を使われています。

 遇、行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。

 遇、信心を獲ば遠く宿縁を慶べ。

 どちらも、 思いがけず救われたならば、遠く過去からの因縁を慶びなさい、という意味です。

 当然ながら、蓮如上人が「宿善」と言われているのも、救われて過去を振り返ってよろこぶものばかりで、いずれも「他力の信心」「他力のお育て」「阿弥陀仏とのご縁」という意味です。

 にべもなく言います。

 救われて念仏申す者ですが、私は何もしてません。

 これで論破です。敢えて体験で申します。

 宿善、字面通りにいかないんです。やはり下心があるのでしょう。

 救われるのに足しになるように思わせて、私に何かを求めるような話、端的に言うと物やお金を要求してくるのは、異安心どころか浄土真宗ではありません。

ブログ「念仏者 とんのつぶやき」の構成

 このブログの構成について。

 3部構成です。というか書き始めは特に考えてなかったのですが、気が付いたらそのようになってました。

 ☆2019年☆

1部 9月9日:ブログを始めたきっかけ(思い立つ!)

2部 9月11日~9月25日:浄土真宗の要(とんの全て!)

3部 9月26日~:とんのつぶやき(好き勝手に…)

 個人的には2部をこのブログで残せたことが1番の喜びです。

 「本願を信じ念仏申さば仏に成る」浄土真宗は極めてシンプルです。

 そしてそのようにただ今救われることです。

 これ以上何も書き残すことはありません。遺言か…(笑)。

 何十年たって読んで頂いても普遍的な内容かと、勝手に自負する次第です。

 3部については、私は学者ではないので自由に書きたいと思います。

 ただ、前にもブログに書きましたが、浄土真宗には異安心といって、間違った理解や信心が昔から今に至るまで、いろいろとあります。あまりに簡単すぎるから信じにくく、また間違えやすいのかと思います。

 そこが気がかりです。

 自身の喜びやぼやき、仕事や時事ごとやら何でもからめて適宜つぶやきます。

仏さまの願いと私の願い

 阿弥陀仏の願いは、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を生まれて死んでを際限なく繰り返して(輪廻して)いる全ての人を、出て離れさせ、浄土というさとりの世界に生まれて仏に成らせるというものです。

 本当にそんな者が私で、本当に浄土往生や成仏ということがあるのかと思ったものでした。では聞いてみようかと。

 どういう縁で聞き始めるようになるのかは人それぞれだと思いますが、俗に言えば、とんでもないチャンスです。どういう縁で命(人生)が終わるのかも人それぞれで分からないからです。

 私の願いは、かなえるものです。願いに応じた努力や時間を要します。

 阿弥陀仏の願いは、すでに南無阿弥陀仏となって完成し、この今救う、と現にはたらきかけられているものです。疑いなく受けいれるだけです。急ぎましょう。

何も求められていない その2

 忖度という言葉が政治問題で脚光?を浴びました。

 職場の会合でも、忖度しとるんやで!、など普通に耳にします。

 露骨に下心ありありです。

 それで忖度される側が喜ぶのならまだいいですが、ただの余計なお世話、だったら悲しいですね。

 阿弥陀仏は、何も要らんから早く私にまかせよ、と言われています。

 本当に何も要らんのです。たとえ心からの思いや善であったとしても、です。

 ちょっと奮発したレストランでの会計、親の懐事情を心配した我が子から、僕も100円出すよ、と出されたらどうでしょう?。それも毎月の小遣いから…。泣けてきますよね。

 ではどうしたらいいのでしょう。

 「我にまかせよ、必ず助ける」の呼びかけのままに、まかせきることです。