念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

やることはやっておく

 どんな集まりの中でも和が大事かと思います。

 遊びや趣味であればほどほどでよくても、仕事となると本人やその家族の生活もかかってきたりするのでさらに大事かと思います。

 元来日本はそういう和を尊ぶ文化が根付いているのではないかと思います。仏法を尊んだ聖徳太子の影響も大きいと思います。

 自分自身は至らない点も多くありますが、和を保つ、ということにおいては立場に相応した、やることはやっておく、というスタンスを貫きたいと思っています。お互いの努力が求められます。

同行のブログ

 同行のブログを気ままに読ませてもらってますが、ああそうだなあ、上手に表現されているなあ、ありがたいなあ、とうれしい気持ちになります。

 学問や社会的地位や年齢、生活環境は様々であっても、他力信心という点においては共通です。信心のことについて書かれていることには、たいていしっくりくるものです。

 いずれにしても、ただ今救うという本願を疑いなく聞き入れることが肝要です。

悪人正機

 悪人正機について、「要は自分は悪人であると自覚しろってことだな」という言い回しを読みました。

 違和感があります。

 自分は悪人であると自覚したこと、それ自体は救いと関係ありません。また、悪人だと深く省みることも救いと関係ありません。

 救いとは他力の信心のことです。

 悪人正機歎異抄の有名な言葉ですが、いろいろな解釈があふれています。

 ここで悪人とは、自力の心が捨たった人、即ち他力に任せ切った人のことです。

私の心と他力の信心

 善いこと、悪いこと、判断に迷うことがあります。そもそも、善と悪をきっちり線引きしにくい事案もあります。

 さらに、自分の都合、という色眼鏡があるので善悪の判断そのものがひっくり返ってしまうことがあります。

 昨日までは、あの人は頼りになる、と思っていたのが、自分の都合に合わない言動を知るにつけて、その程度の人だったか、と評価がコロッと変わるのです。

 我が心こそあてにならない怪しいものだと知らされます。

 どんな心になろうとも、微動だにしない他力の信心ほど有り難いものはありません。

仕事人生の振り返り

 働いていると、自身や上司、同僚の任期満了や更新、配置転換や退職など、小さなことから大きなことまで、いろいろな出来事がありました。これからもそうでしょう。

 振り返れば、大きな節目だったなあ、と思えることが何回かありました。その時は目の前のことで必死だったはずですが、今となってはそれらはまるで、ほろ苦い思い出であり、ふっと笑顔になるような1コマの映像のように感じられます。

 我ながらよくやってきたなと受け止めています。

 辛い時もうれしい時も、なむあみだぶつと称え念じて歩んでいきたいものです。

心を弘誓の仏地(ぶつじ)に樹て

 昨日まで意気盛んだった人がコロッと意気消沈してしまうことがあります。

 きっかけ1つで人はどうにでも変わるものだとつくづく知らされます。支えとしていたものが崩れてしまうとあっけないものです。

 親鸞聖人が教行信証に、

「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」

と言われています。意味を詳しくお聞きする機会はないのですが、すごく格調高いというか無限の広がりを感じるお言葉だと思います。

 弘誓の仏地、こんな土台があれば心底安心できると思います。

 そして親鸞聖人ほど阿弥陀仏のご恩を感じられた方はおられないのではないかと思います。

深呼吸

 毎日が忙しい。

 スマホ1台でその気になれば、これでもかと言わんばかりの情報が手に入り、気が付けばもう1日が終わっている。

 実のところ、スマホを操っているようで操られているのかもしれません。情報をつかんでいるようでそれに躍らされているのかもしれません。そんな感覚に陥ることがあります。

 無常の我が身をみつめて、深呼吸。