因果応報。
努力があって相応の結果が得られる。真理ですが、その理屈を南無阿弥陀仏の救いに当てはめるのは間違いです。
南無阿弥陀仏、他力の信心は、何の計らいもなく聞き入れる信心です。
例えば、用意されたお宝を、心からどうぞ受け取って下さい、と差し出されているであれば、そのまま頂くのが良いことです。遠慮して拒めば、相手を悲しませることになってしまいます。
私に浄土往生できるような善が出来ないと見抜かれて、浄土往生できる善が収まっているのが南無阿弥陀仏です。
年をとるほど月日がたつのを早く感じる、というのはこれまでを振り返るとその通りと感じます。気が付けば臨終、と言うのは大袈裟でしょうか。
間違いないことは、時間は誰にでも平等に与えられていて、1日生きたということは確実に1日後生に近づいたということです。淡々とした日常であっても、忙しさに追われた日常であってもそれは変わりません。
時は平等であると同時に冷徹であるのかもしれません。
そんな中にあって念仏者とならせて頂けたことは不思議なことです。
ただ南無阿弥陀仏を疑いなく聞きいれて、後生に近づくままが浄土に近づく、感謝の日々を送らりたいものです。