念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

因果応報と他力の信心

 因果応報。

 努力があって相応の結果が得られる。真理ですが、その理屈を南無阿弥陀仏の救いに当てはめるのは間違いです。

 南無阿弥陀仏、他力の信心は、何の計らいもなく聞き入れる信心です。

 例えば、用意されたお宝を、心からどうぞ受け取って下さい、と差し出されているであれば、そのまま頂くのが良いことです。遠慮して拒めば、相手を悲しませることになってしまいます。

 私に浄土往生できるような善が出来ないと見抜かれて、浄土往生できる善が収まっているのが南無阿弥陀仏です。

とんだ話

 全人類は悪人であり、死後は地獄に堕ちる。

 今思えばゾッとするような話を繰り返し聞かされ信じていました。するとどうなったか?

 自己肯定感が下がる、どこか投げやりになる、死に対して過剰な恐怖感に襲われる、他人の良い言動を素直に見れない。

 暗くネガティブな人生を送らざるを得なくなっていました。

 実際は、人それぞれ個性があって、尊敬すべき素晴らしい人は、今も過去にもたくさんいます。

 本来の浄土真宗とはあまりにもかけ離れていました。

 本当のところは、自力では浄土往生できないという点において、どの人も、南無阿弥陀仏に救われるしかないということでした。

月末に思うこと

 月末には、店舗のいろいろな実績・結果が出てきて把握することになります。少なからず一喜一憂するのですが、どこか他人事と思えるのは適当な性格だからか、それとも仕事に真剣さが足りないからか。

 どちらにしても何事もほどほどが身体にもよいでしょう(笑)。きっちりしすぎた人は接しにくいですし。

 一年の半分が過ぎました。南無阿弥陀仏をとなえつつ歩んでいきたいと思います。

平等におとずれるもの

 年をとるほど月日がたつのを早く感じる、というのはこれまでを振り返るとその通りと感じます。気が付けば臨終、と言うのは大袈裟でしょうか。

 間違いないことは、時間は誰にでも平等に与えられていて、1日生きたということは確実に1日後生に近づいたということです。淡々とした日常であっても、忙しさに追われた日常であってもそれは変わりません。

 時は平等であると同時に冷徹であるのかもしれません。

 そんな中にあって念仏者とならせて頂けたことは不思議なことです。

 ただ南無阿弥陀仏を疑いなく聞きいれて、後生に近づくままが浄土に近づく、感謝の日々を送らりたいものです。

役者

 職場では管理者で専門職です。

 ひとたび職場を離れ自宅に帰れば、父親であり、夫であり、母の子供でもあります。

 更に訪れる所によっては客であり、患者であり、会員でもあります。

 人生という舞台で何役もこなしているのが私という存在なのかもしれません。

 そうしていずれ臨終を迎えます。

 行き着く先が浄土と決まっているのだから、しんどいことがあっても、全ての役を全うしてやるぞ!、と思えてきます(笑)。

ゴールデンウイーク

 腰痛とは長い付き合いですが、いつ不調に陥るのか予想できません。

 調子がよい時は腰痛の辛さを忘れてしまうくらいなのですが、いきなり襲ってくることもあって気が抜けません。日頃からなるべく軽く済むように対策はしています。

 それでも腰の調子が下り坂になりやすい時期というものがあって、そのひとつが連休前や連休初日です。どこかで緊張の糸が緩むのか、腰も頼りなくなった感じになるのです。不思議です。

 いっそのこと、毎日仕事をしていたほうが腰にはいいのかもしれませんが、さすがにそれは無しということで。

 今日は連休初日、がっつり休ませてもらいます!(やはり腰痛・・・)。

年度末

 年度末は1つの区切りです。職場の掲示物の差し替えをするにあたって、少しばかりですが身の引き締まる思いでした。

 朝から夜までの生活パターンは変わりませんが、あっという間に過ぎたように感じる今年の3か月を振り返り、より多く念仏を称えられるような日々を送りたいと思います。