念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

着実な歩み

 生後、デビュー、結成、没後、復帰〇〇年、など節目の年ということがあります。先月と今月は、個人的にそういった関心事が多くありました。

 その中で、確実に年を重ねている自分がいるわけです。

 世の中いろいろなことがおきますが、平凡でも前向きに歩んでいきたいと思います。

浄土往生の後に

 わずかばかりの縁ではあっても、その方が亡くなったことを知ると、生前の最後となった会話が思い出されます。仕事柄、そういうことが年に何度かあります。

 この世でできることは僅かでありましたが、仏様に成らせて頂いた後に、その方のためにできることがあるのだろうと思っています。

 他力の信心を頂いていることがいよいよ有難く思えてくるのでした。

近づくべからず

 自分ではどうしようもできないことには反応せずに、自分のできることに集中する。このようなことを言うトップアスリートや著名人がいます。なるほどと感心しますが、実行するのは至難の技だと思います。反応しないように、と反応してしまいます。

 なるべく悪縁には近づかないように、というのが賢明かもしれません。良い縁を求めていきたいものです。

仕事にキリがない

 仕事にはキリがないので、どこかで踏ん切りを付けるしかありません。一日のうちで一番ながく時間をかけているので強くそう思うのかもしれませんが、何事でもきっとそうなのでしょう。どこかでけじめをつけるべきものなのでしょう。

 そこで、限られた命で何をするかが大事になってくるのですが、既にこのままの私で救われていることほど有難いものはない、と思い知らされるのでした。

置き忘れ

 先日、傘をある店に置き忘れたことをその日の晩に気付きました。店を出る時には雨が降っていなかったのと次の用事を考えていたからでした(次の日に傘を取りにいきました、一件落着)。

 気を付けないとな、と思いましたがこれまでも何度かやってます。誰でもそうかもしれないですね。自分の勤める店舗でも置き忘れ傘はちょくちょくあります。

 そう思いながら傘を持って歩いている時、信心だけはどれだけ忘れていようとも私から離れることはないぞと思い、ハッとしました。なんと有難いことかと念仏称えさせてもらいました。

 実に気楽です。

因果応報と他力の信心

 因果応報。

 努力があって相応の結果が得られる。真理ですが、その理屈を南無阿弥陀仏の救いに当てはめるのは間違いです。

 南無阿弥陀仏、他力の信心は、何の計らいもなく聞き入れる信心です。

 例えば、用意されたお宝を、心からどうぞ受け取って下さい、と差し出されているであれば、そのまま頂くのが良いことです。遠慮して拒めば、相手を悲しませることになってしまいます。

 私に浄土往生できるような善が出来ないと見抜かれて、浄土往生できる善がまるごと収まっているのが南無阿弥陀仏でありました。

とんだ話

 全人類は悪人であり、死後は地獄に堕ちる。

 今思えばゾッとするような話を繰り返し聞かされ信じていました。するとどうなったか?

 自己肯定感が下がる、どこか投げやりになる、死に対して過剰な恐怖感に襲われる、他人の良い言動を素直に見れない。

 暗くネガティブな人生を送らざるを得なくなっていました。

 実際は、人それぞれ個性があって、尊敬すべき素晴らしい人は、今も過去にもたくさんいます。

 本来の浄土真宗とはあまりにもかけ離れていました。

 本当のところは、自力では浄土往生できないという点において、どの人も、南無阿弥陀仏に救われるしかないということでした。