念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

No More Heroes

Whatever happened to the heroes?
Whatever happened to the heroes?
No more heroes any more
No more heroes any more

 ザ・ストラングラーズの「No More Heroes」の歌詞のサビの部分です。よく聴いた曲ですが、初めて日本語訳を読みました。

 ここに登場するヒーローは皆、厳しい末路を迎えました。そして、

 ヒーローはもう要らない、と。

 ヒーローと言えば、

 長い間、善知識(善い先生)と思っていた人物が、実は違っていたという苦々しい経験をしました。

 それと同時に、自分の判断力、思考の癖を見つめ直すことになりました。

 1番怪しいのは私の判断。

 1番危ういのは私の思い込み。

 浄土真宗において知識選びは、慎重であってあり過ぎる事はないと思います。

 知識と言っても僧侶だけではありません。私を正しい浄土真宗に導いて下さった方、下さる方が私にとっての善知識であり、恩人でありました。

 本来、南無阿弥陀仏の救いを教える浄土真宗に、ヒーロー的存在はそぐわないですし、ましてやヒーローになったり、もちあげられたりするものでもないでしょう。

Your hero is right beside you

NO Namu Amidabutsu ,NO LIFE!

NO SHOGI,NO LIFE!

 将棋講座にこんなタイトルのコーナーがありました。明快で響きのよい英語だと思います。

 いつの今でも思うことは、南無阿弥陀仏があって良かった〜、ということ。

 やっぱり後生は阿弥陀様やね〜、南無阿弥陀仏やね〜、おまかせやね〜、と母にも声をかけてます。

 文法的にどうあれ、これでいいのだ〜(笑)、と思うのでした。

私の心に用事はない 自問自答

【例文】

阿弥陀仏の完成した救いに遇っているから、

南無阿弥陀仏が私の世界に届いているから、

私の心に用事はない。一人も漏れず仏に成れる。

 

 親鸞聖人は教行信証に、

①『「聞」というは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞というなり。』

と述べられています。

 これに例文の意図するところを反映します。

②『「聞」というは、衆生、仏願の本末を聞く、これを聞というなり。』

となります。2つの語句を抜きました。

 1つに「生起」

 2つに「疑心あることなし」

 まず例文からは「疑心」が生じません。疑心の出ようが無いのですから続く「あることなし」も無意味になります。

 結果として、あなたを仏にするという法蔵菩薩の本願が成就してますよー、南無阿弥陀仏となって既にあなたに届いてますよー、と聞くこと、となります。

 それならば全世界放送でもって、全ての人に本願成就を知らしめることで、皆仏に成れる理屈となります。これで完結、めでたしめでたし。

 こんなので良かったかな?

 何か他人事のように思えます。少なくとも私は、ああそうですか、と素直に喜べるような奴ではなかったです。それがどうかしましたか、と。

 ◯◯を知らしめることで、皆□□に成れる。

 ◯、□何でも置き換え可能な気がするのです。

 つまり浄土真宗と他の宗教とが同列化されて、他力の信心の特徴が埋没してしまうように思えるのです。

 私の心に用事はない。これは阿弥陀様のどんな人をも救う、深いお慈悲を表すのではなく、私の存在・本当の姿を度外視した、どこか一方的な救いを表すかのようです。それは「仏願の生起」が欠落しているからでしょう。

 親鸞聖人は尊号真像銘文に、

「聞というは、如来のちかいの御名を信ずともうすなり。」

と述べられています。

 聞=信=疑心有ること無し。南無阿弥陀仏のいわれを疑い無く聞いたのが浄土真宗の信心でありました。

 同じ「聞」でも①と②では根本的な違いがあります。

 以上、何とも理屈っぽいですが、教義に合わない信心は違和感を覚えます。そして、

「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」

 念々に相続する妙味を知って頂くことを念じるのみです。

改訂

 業務内容に細かな改訂が行われました。定期的にある受け身的要素の強いものですが、その前後は毎回あたふたする検討事項が出てきます。

 今回は、よい方に転ぶ事案が1つ急浮上して無事通過しました。

 土台となる基礎・基本があっての改訂です。目先の利益も大事ですが職務の基本に忠実に。

 六字のみ名をとなえつつ世のなりわいにいそしまん。

差別心の考察 とある文章から

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(歎異抄

 いかなる振る舞いですから、縁さえあれば何でもやってしまう可能性があると言うことです。こういうことだけはやらないと言う事は絶対にないと言うことです。

 人種差別、民族差別、文化差別、言語差別、地域差別、ヘイトスピーチ、性差別、能力差別、階級差別、職業差別、学歴差別…、大きなものでもこんなに。

 個人レベルでは、あらゆる現場でいじめやハラスメントなど、差別だけが原因ではない複雑で一筋縄にはいかない問題がひしめいています。

 ではその源はと言えば、個々の差別心、正確には分別智に帰結するのではないでしょうか。人間そのものの性分が創り上げた世界を生きている。

「さるべき業縁のもよおせば、いかなる差別もすべし」

 そういう差別心の塊のような者をそのまま救って下さるのが阿弥陀物の本願です。

 冒頭にあげた歎異抄のお言葉の後に、

親鸞聖人に差別心はありません」

 1番驚き呆れているのは親鸞聖人に違いありません。

 念仏の救いを勧められたのが親鸞聖人です。

 世界から差別を無くすのは私達の責務です。

 これについては最初で最後にします。

^_^ぼっち信心の沙汰 スタートライン

2010-01-23
スタートライン
 
一日も片時もいそぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定して、そののち人間のありさまにまかせて、世を過すべきこと肝要なりとみなみなこころうべし。(御文章4帖目13通)

急ぐべきは信心決定。
スタートラインを通過させられ思いが広がります。

Nowとんのつぶやき

 信後の生き方について蓮如上人は、

「人間のありさまにまかせて、世を過ごすべきこと肝要なり」と述べておられます。

当時の真宗門徒に対する強い風当たりが背景にあったのかもしれません。それを踏まえても、そんなんでいいのかな?と意外にも思えました。

果たして信前と信後で何が違っているか。

ただ今助けるという本願を疑い無く受け容れている、これだけです。

 法を仰げば念仏が溢れます。けれども煩悩に微塵の変化もありません。臨終の一念に至るまでとどまらず、消えず、絶えず、です。そう簡単に人間の質というか人間性が変化することはないのでした。

 スタートラインを通過させられ思いが広がりました。

 そして、広がる思いのありったけを表現出来るのは、往生して後の還相と受け止めるようになりました。

^_^ぼっち信心の沙汰 しっくりする

2010-02-18
しっくりする
 
一味の人とは、教学や表現力や性格はまちまちでも、要のところが不思議としっくりするのです。ましてや身内となればなおさらです。

Now とんのつぶやき

 今なら、しっくりくる、と書きます。

 親、兄弟、妻子等、身内以上に気楽に本音で話せる人は、まずいないでしょう。

 信心については、思いをなるべくそのまま言葉に打ち出すことで、実りある沙汰になると思います。

 信心の有無については、いつの間にかそういう段階を終えてしまった感があり。良くも悪くもこれが身内というものでしょう。

 往生は投げた投げた^_^