念仏者 とんのつぶやき

お慈悲に包まれた日常と、浄土真宗の救いを綴ります^_^

お盆前のつぶやき

 相変わらず、ばたばた物理的にもメンタル的にも仕事に気をとられています。もう適当でいきたい^_^;)。

 それはさておき、このブログは、ただ思ったそのままを書くこともあれば、学んだ教義を咀嚼して吟味して書いたエントリーもあります。

 行信不離のエントリーで6つ書きました。その内容で、「念仏の称え心」における私の領解意外は、ほぼ後者です。その時々の学びのご縁に感謝して、書いた自分を拝んで^_^読み返しました。とても自分で書ける筈がない文章があることに気付かされるからです。放っておいたら見事に忘れてしまう、情けない。でも頂いた信心だけは変わらない。

 行信半学どころか行信全学とも聞いた事があります。

 このまま、まったりと。楽させてもらいます。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

激アツに思う

 激アツといえる暑さが続いています。子供の頃の夏休み、プールの行き来での暑さの記憶が蘇りますが、今では熱中症アラートで命の危険を鑑みてのプール中止、明らかに当時の暑さとは一段違っているようです。外出自体がリスク因子です。

 阿弥陀如来の本願力を日光を比較に出して喩える事がありますが、あくまで喩えであります。先の気候で言えば今の日光は強すぎて、人の健康を害するリスク因子です。阿弥陀如来に救われたら障りなく照らされるように明るくなるという意味合いでは通じません。

 言葉や単語のイメージと実際に伝えようとしている内容の本質を把握する必要があったりします。

 ここでは、阿弥陀如来に救われたら何もかもが明るく輝いた世界が心に開けてくるのではなく、単に本願に疑いがなくなっていることを言います。救われたら日本晴れの心になる、的な曖昧で漠然としたものではなく、また必ずそうなるものでもありません。その意味で、救いと喜びとはセットではないと言えるでしょう。

 暑くてまとまりなく記します^_^。

応援

 他店舗の応援に入るようになり物理的にもメンタル的にも忙しさが増しています。それは想定内でしたが、もう昔のように若くはありません。当たり前か^_^。

 上手く力を抜きたいところですが、上手くいかないのが常。

 そのような煩いだらけの一日を阿弥陀仏は陰ながら応援・見守ってくださっているのでしょう。大声で励まされては何事も手がつきません。南無阿弥陀仏

身体のメンテ

 ウォーキング8000歩。週3回。

 チラッと目た心不全対策?の番組で言われていました。

 年齢や健康状態にもよりますが、今の私にはピッタリの目標かも。毎年この時期は思い立っていたような、、。10代の頃が懐かしく思えます。ちょっと走ると鉛のように足が重く感じる日もあります。そんなことは当時は一度もなかった。それはそれで良しとしよう。

 体操やストレッチも絡めてやんわりと身体を鍛えてあげよう。

行信不離ということ その6(最終)

親鸞聖人における行信不離

しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。(中略)いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ

「行文類」行信利益(註釈版・一八六頁)

 この行信は本願力回向の行信であり、名号の徳が私の上に称名となって私に疑いなく届いているのでありました。

 このように学んだことを受け止めました。

念仏者とんのつぶやき

 他方、「念仏して助かろうとか信心頂いて助かろうとかでもなく、本願成就で救われている」という内容が書かれてあるのを目にします。

 この説をよく聞かれた方は皆、そのように救われているのだろうと受け止めます。

 一つあるとすれば、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人は「念仏の信心」、今回の学びで言えば「本願力回向の行信」「他力の信心」ですが、上記の領解は「◯◯の△△」、素朴な疑問としてどう表現すればよいでしょうか。

 行信不離について続けて述べてきましたが、これで区切りとします。

 伝統教学にはしっかりした基盤、どっしり感があり、遠慮なく思いをぶつけてその跳ね返りを自己に問いかけることが出来るように感じています。

 やはりただの凡人、基本中の基本だけでも気楽に学んでいきたいと思います。

行信不離ということ その5(「念仏の信心」の衝撃度^_^)

このこころえのとほりをもつて、すなはち弥陀如来他力の信心をえたる「念仏行者」のすがたとはいふべし。かくのごとく「念仏の信心」をとりてのうへに、なほおもふべきやうは、さてもかかるわれらごときのあさましき一生造悪の罪ふかき身ながら、ひとたび一念帰命の信心をおこせば、仏の願力によりてたやすくたすけたまへる弥陀如来の不思議にまします超世の本願の強縁のありがたさよと、ふかくおもひたてまつりて、その御恩報謝のためには、ねてもさめてもただ念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の仏恩を報じたてまつるべきばかりなり。

(御文章3帖13通)

「念仏行者」が「念仏の信心」を獲る。

「御恩報謝の念仏」しかまともに聞いて来なかった者にとっての衝撃度は如何。

 私がまさにそれでした。言葉自体に馴染みがありませんでした。見事にスルーしているんですね。2023年12月のことでした。

 「念仏の信心」とは「念仏を信じる信心」、これが「他力の信心」であり、「念仏一つと信じた信心」であると学びました。言葉は大切です。まずは受け止めることから始まります。そこから自身に照らし合わせてみます。無理矢理ではなく、しっくりくるかどうか?

 蓮如上人のお伝えしたかったことをなるべく深く、縁あるごとに柔軟に学びたいと思いました。