念仏者 とんのつぶやき

お慈悲に包まれた日常と、浄土真宗の救いを綴ります^_^

師走のつぶやき

 気がつけば、師走。いつもこの時期になると気忙しく感じるものです。確かに仕事は機関当局への定期報告や、社内の調整、慣れない仕事も担当して落ち着かない。

 歳を重ねるほど一年が短く感じるのは、同じ事の繰り返しで印象的な出来事が少なくなるからだと、何処かで読んだことがあります。

 若い頃にやり切った感のある遠距離移動の連続の影響もあるのか、仕事以外にこれといった遠出の活動的な趣味を持たない、いや、持ちたくない(^_^;)自分は人と比べ、インパクトのある出来事や思い出が更に少ないように思います。もう、ささやかな安らぎが僅かでも感じられれば十分、まだ早いか?。

 師が走るのなら、実質下っ端の私も走って当然。でもひたむきさがあればそんな日常にも喜びはあるものです。

 南無阿弥陀仏を称えつつ、浄土は如何なるところか、先にもありがたい楽しみがあるもんです。

 今ここがありがたい。

付いたり離れたり

 スタッフが去ることになりました。

 しかしこれは、あくまでも仕事という視点からであって、かたちは離れますが、違うかたちでどこかで繋がっているし繋がっていくのだろうと思います。袖触れ合うも、、、でしょうか。喜んでいいのかな(^_^;)。

 つまらない私でも、歳のせいもあってか今回のことでも、その他のきつい局面や出来事でも、相手を慈しむ思いが不意に湧き上がってきます。

 悲しみや喜び、不安と安堵、驚きと諦め、など様々な思いの交錯と人との関わり、この積み重ねが人生なんだとも思います。

 

 他力の信心を獲た者、救われた者、念仏者としての立場から、何とかなって欲しい、と思う人はたくさんいます。

 今はさすがに無理、また殊勝な気持ちはとても続かないけれど、必ず未来は生命まるごと何とかしてみせる!私の力では無いのだから!。

 こう思えるだけでもありがたく、多少なりとも心が軽くなる思いがするのでした。

節目

 今日の夕のウォーキングは久しぶりに気持ち良かったです。ようやく秋らしさが感じられました。

 家族のサポート、仕事、自身の体調管理、特に3番目は生涯に渡る課題、老病死は避けられません。五蘊盛苦がじわじわと深まってきます。

 しかし救われた生命、御恩に1mmでも報いられれば、また社会に貢献出来るのであれば、少しは生きている甲斐があるのではないかと思います。

信心は、つかまえようがない

 親鸞聖人は信楽を「疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく」(『註釈版聖典』二三五頁)と仰る。疑いという蓋を間に雑えないことを信楽という。つまり容器に水を入れようとしても、蓋をしていたら中に入らない。そこで疑いという蓋を雑えないことによって、法の水が器の中に入ってくる。この器の中に本願の救いの法が届いていることを信心、信心の内容という。だから信心を「疑うこころのなきなり」と言います。「疑わない心」ではないのです。「疑う心がない」という状態なのです。だから信心は、「ない状態」を顕すので、つかまえようがないのです。信心をつかまえるなんてことはできないのです。

正信偈講座(梯實圓)P59より

 前回のエントリー、「信心は、「疑い心」のない状態」の続きの文章を引用致しました。下線は勝手に引いてみました(^_^;)。

 また、『信心は、「ない状態」を顕すので、つかまえようがない』と述べられています。「私には何もない」、と過去のブログで書いたことがありました。

 とんのつぶやき

 私の信心と言っても本来私のものではない。

 ただただ救いの法を仰ぐばかり。まったくもって、法、すなわち、南無阿弥陀仏のひとりばたらきなのでありまして、あり続けています。

信心は、「疑い心」のない状態

 その信楽とは何かというと、「疑いのない状態」を顕す。「〈信心〉は如来のちかひをききて疑ふこころのなきなり」(『註釈版聖典』六七八頁)と『一念多念文意』に仰っているのです。「信楽」(信心)とは、如来の真実なる御誓いを聞いて疑う心のないこと、疑いを雑えないことと仰っています。だから信心とは「疑いがない状態」なのです。では何があるのかというと、至心です。如来の真実心が私に届いている。これを信心という。だから信心とは、疑いという「はからいを雑えない状態」である私に、阿弥陀仏の本願の真実心(仏心)が宿っていることなのです。

正信偈講座(梯實圓)P59より

 この書籍は、朝日カルチャーセンター大阪中之島教室での講義の文字起こしが元で、聖典をはじめて手にされたご門徒さんが対象と、はじめに、に書かれています。

 前回の エントリー2025-09-07「基礎から出直し」、で頂いた質問コメントに、コメント欄で私なりに回答しました。

 丁度、今読んでいる書籍の上記箇所がピッタリだと思い引用致しました。これに続く内容もありがたいです。

 私にはしっくりしっくりきます。

自分の頭で考える

 チャットGPT(チャッピーだそう^^;)をようやくちょっとかじってみました。何とも見事なものです。回答が100パーセント正しい訳ではないという前提に立つのが大事ですが、今のところほぼ満足しています。

 情報源の枯渇による成長の限界説もあるようですが、既に社会にとって欠かせない、無視できない存在になっています。一方では新聞社などマスメディア、他団体からの訴訟もあり複雑です。

 私の業務自体も何割か(?)はAIに取って代わることになるでしょう。見届けます(^_^;)。

 情報源の信憑性とその解釈、いずれも大事ですが、浄土真宗の信心を述べるこのブログの趣旨から言うと、両方とも批判的に捉えていくことがやはり大切かと思いました。

 正しい学問・解釈があっての、正しい念仏・信心。

 学問と信心がスッと繋がってこそ南無阿弥陀仏に包まれた人生を折に触れて喜べるのでしょう。