念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

仏願の生起本末(しょうきほんまつ)

 仏のさとりを求める方を菩薩といいます。

正信偈の始めには、

法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所

とあります。法蔵菩薩とはどういう菩薩でしょうか。

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 法蔵説話

 『仏説無量寿経』には、次のように説かれています。

 昔、あるところに一人の国王がいました。国王は、世自在王仏の説法を聞いて感動し、自らもさとりを目指したいと思い、国王の位を捨て出家して、一人の修行者(菩薩)となりました。名を、法蔵(ほうぞう)菩薩と言いました。そして、五劫という長い間、思惟して、四十八の誓願四十八願)を建てました。それは、いずれも『私が仏になるとき、〇〇できないようなら私はさとりを開きません。』というものです。中でも、十八番目の願い(第十八願)には、『すべての人を必ず救う』と万人の救済が誓われているので、根本的な願ということで本願と呼ばれています。

 その後、法蔵菩薩は兆載永劫(ちょうさいようごう)という長い間、修行して、ついに阿弥陀仏という仏になりました。それは、今からおよそ十劫も昔のことです。

 (『仏説無量寿経』『註釈版聖典』一一~二八頁参照)

   (小池秀章著「高校生からの仏教入門」p172~173)

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    法蔵菩薩が願いを起こされ修行して、阿弥陀仏になられたということですね。ただのお話ではなく、このようなストーリーとなって、私の認識にのり、心に響いてくるのです。

 ここで、大事なのは、ではどうしてこのような願いを起こされたのかというとことです。それは、煩悩具足の凡夫、と言われるような私たちがいるからです。迷いの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を生まれ変わり死に変わりして離れられない私が原因であったのです。

(生起)

 それで、私たちを救いたいと法蔵菩薩となって願いを建てられ、願いを実現するために修行をつまれたのです。

本)

 その結果、阿弥陀仏という仏になられたということは、本願が、すでに実行力をもってはたらいているということです。どのようにしてはらたいているかというと、私たちを救うはたらきのある、南無阿弥陀仏という名号となって、与えようとはたらいているということです。

(末)

 これを仏願の生起本末と言います。