「聞(もん)」というは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞というなり。
と述べられています。
わたしたちが、仏願の生起本末を聞いて、疑う心のあることが無いのを聞というのである、と言われています。
ここで、疑う心のあることが無い、というのは疑わないように努めたとか、よく理解したとか、自分でどうにかしたの(自力の信心)ではありません。
次に、
「信心」というは、すなはち本願力回向(えこう)の信心なり。
と述べておられます。
「信心(仏願の生起本末を聞いて疑う心が無い)」というのは、阿弥陀仏の本願力(他力)によって、与えられた(くだされた)信心である、と言われています。これを他力の信心と言います。
(他力とは、本来浄土真宗では、阿弥陀仏の本願力のみを意味します。他人の力とか自然の恵みなど、自分以外の人やものの力やはたらきという意味はありません)。
☆とんのつぶやき☆
疑う心を取り除くはたらきが他力といえるでしょう。阿弥陀仏が疑いの心をとってくださるのです。
※仏願の生起本末についての詳しいことはこのブログでは割愛させていただきます。m(__)m。
このネット時代、情報の取捨選択が大事ですが、他のブログやホームページなどに、とても分かりやすく説明されていると思えるものがあります。機会があれば個人的に紹介させてもらいます。