10月7日、「私の前に道はない」のタイトルでも書きました。
~~
道があったとすれば、救われて振り返る程度のもの。親鸞聖人の三願転入の文もそうですよ。
南無阿弥陀仏においては道など元より無いですからね。
~~
と。
ついでに言えば、「宿善」についても同じ。振り返るもの。
異説があったので、まじめに一度だけ書いておきます。
「宿善」を、あたかも「救われるための私の善行」であるかのように、におわせながら話をする人がいます。
「宿善を厚くするように」 え?! 言い換えれば、
「私の前に道がある」ええ?!?(数増)まさに未来形…。
親鸞聖人の著作には「宿善」という言葉自体が無かったかと思います。宿縁という言葉を使われています。
遇、行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。(当ブログで2度目の登場)
遇、信心を獲ば遠く宿縁を慶べ。
(思いがけず救われたならば、遠く過去からの因縁を慶びなさい)
当然ながら蓮如上人が「宿善」と言われているのも、救われて過去を振り返ってよろこぶものばかりで、いずれも「他力の信心」「他力のお育て」「阿弥陀仏とのご縁」という意味です。
にべもなく言います。
救われて念仏申す者ですが、私は何もしてませんから。(笑)
これで終わり、こんなの。
字面通りにいかないんですよ。それとも下心あります?。
私に何かを求めるような話は、異安心どころか浄土真宗ではありません。