今日の朝刊で、今回のタイトルついて、別の角度からある人の言葉がとりあげられていました。
私も好き勝手に、真正面から書いてみます。
「人生に意味があるのか」
「南無阿弥陀仏のはたらきに救われてこそ意味が出てくる」
まず救われること。
私が救いを求めるずっと先に、私を必ず救って浄土に生まれさせるという南無阿弥陀仏が完成しています。そして、すでに救わんとはたらきかけられています。踏み込んで言えば、すでに救いが届いているということです。いつでもどこでも誰にでも届いているのが南無阿弥陀仏です。そのことに、
疑い無い(疑わない、のではない)
受けいれる
気付かせてもらう
はからいがない
いろいろな表現がありますが、そのようになったことが救いであり、他力の信心をいただいたということです。
そしてそのように疑いを除き、受けいれさせ、気付かせ、はからいを無くするのも南無阿弥陀仏のはたらきです。
そうなると、往生浄土の身となり、死への根源的な不安の壁を乗り越えることができます。往生とは、生きづまることではなく、まさに浄土(さとりの世界)に往って仏に生まれる身になることをいいます。
このことに論証や実証は必要ありません。今ここで救われている私という存在そのものが答えであるからです。
私たちの思想や思考という領域とは明らかに一線を画します。
飛躍した話になりましたが、生きている人にとって究極の問題であるとも言える死の問題を、理屈抜きで超えていく救いが南無阿弥陀仏であるということです。