努力して得られるものは我が身はもちろんのこと、他人や社会の幸せとなってあらわれてくるのだと思います。生き甲斐があるのはよいことですが、その道理を南無阿弥陀仏の救いに当てはめるのは間違いです。
他力の信心は、文字通り阿弥陀仏の本願力によって用意された信心です。仏様のほうで努力は既に済んでいます。私のほうで用意するもの、努力することは何もありません。そもそも何も求められていません。
例えば、すでに用意されたお宝を心からどうぞと差し出されているであれば、そのまま頂くのみです。ちょっと待ってくれと言いますか。相手は悲しみますよ。
簡単すぎて信じられないのかもしれません。そんなうまい話があるものかと。この世の道理と合わないではないかと。
次の瞬間死ぬかもしれない無常迅速の機である私に、何かする時間などなかったのです。