念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

私の心に用事はない 自問自答

【例文】

阿弥陀仏の完成した救いに遇っているから、

南無阿弥陀仏が私の世界に届いているから、

私の心に用事はない。一人も漏れず仏に成れる。

 

 親鸞聖人は教行信証に、

①『「聞」というは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞というなり。』

と述べられています。

 これに例文の意図するところを反映します。

②『「聞」というは、衆生、仏願の本末を聞く、これを聞というなり。』

となります。2つの語句を抜きました。

 1つに「生起」

 2つに「疑心あることなし」

 まず例文からは「疑心」が生じません。疑心の出ようが無いのですから続く「あることなし」も無意味になります。

 結果として、あなたを仏にするという法蔵菩薩の本願が成就してますよー、南無阿弥陀仏となって既にあなたに届いてますよー、と聞くこと、となります。

 それならば全世界放送でもって、全ての人に本願成就を知らしめることで、皆仏に成れる理屈となります。これで完結、めでたしめでたし。

 こんなので良かったかな?

 何か他人事のように思えます。少なくとも私は、ああそうですか、と素直に喜べるような奴ではなかったです。それがどうかしましたか、と。

 ◯◯を知らしめることで、皆□□に成れる。

 ◯、□何でも置き換え可能な気がするのです。

 つまり浄土真宗と他の宗教とが同列化されて、他力の信心の特徴が埋没してしまうように思えるのです。

 私の心に用事はない。これは阿弥陀様のどんな人をも救う、深いお慈悲を表すのではなく、私の存在・本当の姿を度外視した、どこか一方的な救いを表すかのようです。それは「仏願の生起」が欠落しているからでしょう。

 親鸞聖人は尊号真像銘文に、

「聞というは、如来のちかいの御名を信ずともうすなり。」

と述べられています。

 聞=信=疑心有ること無し。南無阿弥陀仏のいわれを疑い無く聞いたのが浄土真宗の信心でありました。

 同じ「聞」でも①と②では根本的な違いがあります。

 以上、何とも理屈っぽいですが、教義に合わない信心は違和感を覚えます。そして、

「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」

 念々に相続する妙味を知って頂くことを念じるのみです。