念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

ハッキリするという表現について

 「阿弥陀仏に救われたら、その瞬間がハッキリする」。このように絶えず聞いてきました。今でも、「火に触ったより明らかに知らされるのだ」と看板講師は公式動画で主張しています。

 その語り口や内容から、かつて想起した瞬間とは。

 稲妻に打たれるような衝撃、目がパッと開けるような覚醒、、、。その時を期待すると共に、果たして自分はこの瞬間をまともに受け止められるのか、真面目に考えていました。

 しかし周囲に、嬉々としてその瞬間を我が事として語る講師はもちろん、救われたという信者に1人も会うことはありませんでした。それ以前に、今生に救われる事はまずないだろうという諦めの空気が流れていました。

 そもそも、ただ今救うとはたらき続けている南無阿弥陀仏のいわれを説いていないので、説く人も聞く人も誰1人救われないのは当然のことだったのです。目的のない人生を、同じところをぐるぐる回って力尽きるシャクトリムシに例えた話しは、皮肉にも自らのことだったのです。

 話を最初に戻すと、救われた瞬間がハッキリするかどうか、誰もハッキリしていないのでした。

 では本当のところはと言うと、仏様からは救う瞬間は分かっても、私にはその瞬間を認識できない、それだけのことです。そういうことでした。

 思うにハッキリするか(未来)、ではなく、ハッキリしているか(現在)、を常に問うべきです。今貴方は救われていますか。

 「救われたらその瞬間がハッキリするんです」、そんな呑気な事を言ったり聞いたりしている時間は無いはずです。