「救われたらハッキリします。そこまで求めなさい。」
このように聞いてきましたが間違いです。ただ今救うという本願からずれています。救いというゴールを勝手に先(未来)に設定していることになり、本願ではありません。
こう言うと奇妙な反論があります。ひと括りにすると、「いやいや、始めから救われている人はいない。過程がある。」と。そして過程の話しを展開していきます。
では親鸞聖人はどう仰られているでしょうか。
・『教行信証』化土巻
しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。
・『正信偈』
極重悪人唯称仏
・『高僧和讃』
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ
小賢しい理屈など丸ごと捨てることです。合点の段階ですから、すぐに捨てられます。
親鸞聖人の教えやお言葉は、一字一句丁寧に受け止めたいものです。