念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

ハッキリするという表現について 最終

 浄土真宗の他力の信心を語る時に、ハッキリするという表現はあまり好ましくないというか、しっくりこないと感じています。

 以前にも書きましたが、救われる瞬間がどうこうより、今救われているかどうかが大事だからです。今の連続が今日であり明日であり生活だからです。

 それならば、ハッキリしている、と言えば良いではないかと思えますが、違和感があります。信心は相続していますが普段意識することはあまりないからです。朝起きて、仕事に行って色々悩んだり上手くいって喜んだり。休みの日には家族の世話をしたり、してもらったり、ゴロンとしたり、、、^_^。何も変わらない日常がそこにはあります。いつでもハッキリしてます、という力みのようなものがありません。逆に、往生スッキリハッキリです、と覚醒した状態が続くのならば疲弊して心身がもたないでしょう。

 ではどういう表現がしっくりくるか。本願力回向によって本願のまことを、自力では間に合わず他力しかなかったと知らされている、信知という言葉がやはりピッタリではないでしょうか。

 浄土真宗における意味はもっと深いようですが、法を仰げば、ただ今助ける本願に疑い無きを本願力によって知らしめて下さります。その1番身近な機会は普段から称えているところのお念仏です。いつでもどこでも、これほど行じ易い行は無いでしょう。

 何も変わらない日常生活で、大変わりした南無阿弥陀仏の称え心。そのまま助ける、そのまま来いとの呼び声を、自らの称名念仏を通してそのまま、はい、と聞かせて頂くのでした。南無阿弥陀仏を通して阿弥陀仏と対話している、と表現する人もあります。

 たまに母親とお仏壇に並んで称える念仏に、共に微塵の疑心もなく、一味の信心を有難く思うのでした。このように常にいただけるのが浄土真宗の信心でしょう。

 最後になりますが、救われた瞬間がハッキリしていなければ救われたとは言えない、と言うのは一念覚知と言われる異安心です。つまり本願ではないので、この間違った考え方そのものを捨てない限り浄土真宗の教えを聞いたことになりません。