衆生の称名になる前の名号は無い。
私どもに称えられる前の南無阿弥陀仏が、どっかにあるというお領解は、間違いだということ。
南無阿弥陀仏というものは、私に称えられて南無阿弥陀仏。私に称えられて南無阿弥陀仏、です。
(印象に残った法語)
南無阿弥陀仏は衆生を救うはたらきそのものです。そのおはたらきを疑いなく受け容れたのが信心です。なので信心と言っても、「信心」という「モノ」や「ナニカ」が何処かや心の中に「有る」のではなく、「微塵の疑い無き様(さま)・状態」をいいます。
あっけらかんに言うと、信心のものがらは「何も無い」「空っぽ」なのでした(適切な表現か?(^_^;))。私に称えられて南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。