念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

本願成就で救われるという表現について

 他力の信心、自力の信心、以外にもう1つ。

「(浄土真宗は)本願成就で救われる(教え)」というフレーズをよく耳にしました。

 本願成就や名号のはたらきは「事実」であって、それがそのまま「信じたこと」「信心」にはなりません。そうであるので、救われているか否かの信疑決判の対象にはならないものと受け止めます。

 具体的にはお釈迦様の本願成就文は、字の通り本願の成就を告げた文であり、いわば本願文の参考書です(適切な表現か?(^_^;))。ですからそれを聞いてどれだけ喜びに溢れているとしても、それは感情の類いであって信心とは別物です。信か疑か、論じる以前の事です。

 あくまでも、本願を聞いて疑い無きが信心です。

 また阿弥陀仏釈迦牟尼仏、本願と本願成就文を線引きした思考だけで信心を語るには無理があるように思います。

久遠実成阿弥陀仏
 五濁の凡愚をあはれみて
 釈迦牟尼仏としめしてぞ
 迦耶城には応現する

浄土和讃

親鸞聖人が言われているからです。客観的に考えればそれは容易に合点出来ます。

 基本的には自身で信心の沙汰が出来ると思っていますが、人間の事を「機」と言われるように一筋縄ではいかない、あらゆる事を思考する可能性があるのが私という者。やはり正しい信心と念仏の話を聴聞し、内なる思いを善き師に打ち出すのが良いようです。

 今年は何かと学びが多くお念仏が増えています。ありがたいことです。