本願は成就しています。本願には衆生を救う力(はたらき)があります。
私は何で(によって)救われたのかと言うと、
・本願力で救われました。
・本願の救いのはたらきで救われました。
どのように救われたのかと言うと、
・本願力におまかせして救われました。
・本願の救いのはたらきにおまかせして救われました。
ここで言うところの、おまかせしているか否かが分かれ目です。「おまかせした」のが信心です。
本願が成就していることを知ったのが信心ではなく、その本願力に「おまかせした」のが信心です。言い換えると本願力に「遇(あ)った」のが信心です。
本願成就の事実は聴聞で誰でも知ることができます。
仮に、本願成就🟰私の救い、の解釈ならば七高僧方や親鸞聖人の出る幕はありませんし浄土教の存在意味はありません。
そんな解釈だとすれば、
本願力にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし
(高僧和讃)
本願力に遇(あ)って、むなしく過ぎる人生が仏果を得る功徳の人生に転換されたことを慶ばれた親鸞聖人のお気持ちが、微塵も分からないでしょう。
往生は一人のしのぎなり。一人一人仏法を信じて後生をたすかることなり。
(御一代記聞書)
このように仰られた蓮如上人は笑いものになってしまいます。
とんのつぶやき
断章するつもりは全く無く、文脈やお話しの前後を把握しないと結論出来ませんが、今回の内容が的を得ているのならば大変危険な事です。
念仏者とんの聞き誤り、であるに越したことはありません。南無阿弥陀仏。