「祈祷も、善も、念仏も、信心も、必要ありません。」
最近あちらこちらで目にするようになりました。祈祷は論外、善ならまだしも、念仏も信心も必要がない「浄土真宗の信心」ってナンでしょうか?
新たな語句の定義が必要のようです。
真実信心の念仏者でも間違うことがあるのだから、売僧の手にかかれば信心も念仏もナニモノにでも化けるのでしょう。
少なくともその念仏と信心は、
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
(教行信証総序)
親鸞聖人が仰る真実の行(念仏)信(信心)とは全く異質なナニカでしょう。