念仏者 とんのつぶやき

浄土真宗の信心、仕事、日常の出来事など思うところを綴ります。

御袖すがりに想う

 15年ほど前のことです。

 母が住む◯◯県へ先生と2人で訪れて、母と私と先生での聴聞のご縁がありました。母から質問が出ました。

五帖目第十二通、御袖すがり

なにのやうもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、 

 このお言葉について、

母:御袖にひしとすがる、分かりやすいですね。

先生:分かりやすいですね。阿弥陀仏を人に例えて着物を召しておられる。昔なら子供が親の袖を引っ張っておねだりなどしたのでしょう。

母:阿弥陀仏の御袖にすがればいいですか?

先生:そうです。すがって下さい。

母:本当にすがっていいですね。

先生:いいですよ。遠慮せずに。阿弥陀仏がすがりなさいと言われています。ひしとすがって下さい。

母:分かりました。

 正確には覚えていませんが、概ねこんな感じのやりとりを私も横で聞いていました。母はこの日のご縁をとてもよろこんでいました。

 それからしばらく経った日の夜、母から連絡がありました。

 「信心決定したよ。しばらく様子みていたけど間違いない」

 よろこんでいましたが冷静な口調でした。

 必ず救われるとお聞きしていましたが、たった一度のご縁で救われるとは。しかも共に聴聞していた母が。やはり驚きでした。母は阿弥陀仏の御袖にすがったんだ。本当に阿弥陀仏が現に働いて下さっているんだ。心から嬉しく、また頼もしく思いました。

 それとは裏腹に、実際問題として私はどうしたものか、未だ救われていない。母が羨ましい。焦りのような思いも込み上げてきました。後日先生に吐露しました。

 救われるのに人と比べたら先か後か、前後があるのは当然ですが、差は無いに等しい、必ず救われますと押し出して下さりました。

 次は私の番だと思い直したのでした。

 今にして振り返ると、大事なところを聞き分けるという意味で、母はとても賢かったのだと思います。