私:念仏称えていいですか?
先生:いいですよ、大いに称えて下さい。
私:そうなんですね。
所属団体を辞めた年の事です。先生と共にお話しを聞きたい方の元へ出向き、私も一緒に聞かせてもらった後の質問です。 何と情けない質問をしたものかと思いますが、当時は至って真面目でした。
その時の心境はこうです。
称名念仏は救われてからの御礼。
聖人一流の章に、
「そのうへの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。」
蓮如上人ちゃんと書かれてある。信心決定したうえでの称名念仏だと。まだ私は救われていない。この段階で念仏をあえて称える意味があるのだろうか。
妙に冷めていた。いや、そのようにしか思えない思考回路が綺麗に仕上がっていました。教団版「信心正因 称名報恩」の理屈が無自覚に深いところまで入り込んでいたのです。
省略しますが称名の意義を多面的に学んでいくことで、その捉え方は徐々に変わってきました。それでも実生活に反映されていくには更に時間を要しました。
そんな私でも如来のお育てに預かり、今はすっかり念仏の日暮らしです。信心は何で(何を以て)相続するのか、口からこぼれるお念仏でありましょう。
では信前の念仏はと言うと、
定散自力の称名は
果遂のちかひに帰してこそ
をしへざれども自然に
真如の門に転入する
(浄土和讃)
信前信後を問わず、何時でも何処でも南無阿弥陀仏でありました。