人生の目的(なぜ生まれてきたの?)、という言葉や問いかけは、決して特定の宗教に固有のなものではないでしょう。本や映画のタイトルに、哲学的な考察に、番組で、新聞記事で、歌詞の中に、様々な場面で目にします。また、実際に今を生きているのですから、意識せずとも誰しも1度はふと考えることかと思います。いたって普通のテーマでしょう。
このブログでも、人生の目的に関連したことを何度か書いてきました。 反応して書きたくなるのは、所属していた団体の影響を多分に受けているからだと思います。
「救われてこそ生きる意味が出て来る。」
生きている今が救われる絶好の機会、という意味合いで、「人生が目的になる」、とお同行のブログに共感して述べたこともあります。
一区切り、ここで私なりの結論を出しておきます。
浄土真宗の信心という立場からはフレーズ「人生の目的」、を関連付けるのは馴染まない、また他力の信心を明らかにしていくうえでのメリットも無いと思い至りました。
私へ。無理に繋げる必要は少しも無い、もっと柔軟性を持とう。目的ときたら手段を連想するのは当然、セットだよ。目的によって手段も変わる。そもそもフレーズ「人生の目的」の捉え方も人それぞれ、共通の認識で議論出来るかなぁ?
真宗の救いにおいては、私の側に手段や手立てはありません。それらは全て阿弥陀仏の受け持ちです。まさに「往生は投げた」なのであります。ドカーッと丸投げです。
念仏者とんの「人生の目的」、結論。
【「人生の目的は!」と来たら「仏願の生起本末は!」、主語を私から阿弥陀仏に反転しよう。】
すっきりしました。