念仏者 とんのつぶやき

浄土真宗の信心、仕事、日常の出来事など思うところを綴ります。

機責めと信心

 機責め、本来のそれは、先生や獲信者から私に対して、信心や聴聞姿勢を直接的に問い正すような光景を想像しますが、ここでは振り返りとして述べます。

 「人間の本性は無間地獄行きの極悪人である」

 お聖教の真意を曲げ、断章し、世の中の事例を挙げ、心の闇を突かれ、多角的に擦り込まれてきました。

 そして親鸞聖人が、地獄は一定すみか、と言われた心を取り違え、自らの悪業に責めたてられ地団駄を踏む境地を求めてきました。地獄の釜底で生きた弥陀に会える、信心決定すると教えられてきたからです。

 しかしどれだけ聞いても響かない心が見えてきます。地獄と聞いても驚かず極楽と聞いても喜ばない、テレー、キョロン、キョトン、ボー、と開き直った心です。ではそんな状態に打ちひしがれたのかと言えばそうでもありません。よし、学んだ通りの心だ、信仰が進んでいる証拠だ、この調子なら決勝点(つまり地獄確定(^_^;))まで行ける。

 かなり特異的な思考であったと思います。 

 しかし焦りも出てきました。こんなんで間に合うの?、と。ではどうなるか、 別の私が私を責め立てます。

 具体的には生々しいので割愛しますが端的に言うと、罪悪で私が私を煽りたて、更に無常迅速を言い聞かせようとします。それでもどうにも先が見えてきませんでした。

 「グルグル同じところを回っているように思えてこないか。それを知らされる事で、果てしない過去から流転輪廻してきた自己の姿が照らし出されて後生に驚きが立つのだ」至る所で発奮剤が仕込まれているかのようでした。

 また聴聞すると言っても実質的に法の話はあまり無く、運命論から始まる「因果の道理」、3枚鏡ときたら「真実の自己」、といった具合に機の話をよく聞きました。話しの流れが全て頭に入っている状態からの「初事として聞け」の追い討ちは、自己との闘いから徐々に思考停止へと傾きました。

 結果は自己肯定感が低くなるばかりで、どれだけ力んで叩いても、出るのは溜め息ばかり、脱力感と疲労感に襲われるだけで、何も起こりませんでした。(「自力に負けた」が聴聞後の口癖でしたが、これも的外れな思いであったことを後に痛感することになりました)。

 そうして、教義から離れていきました。

 振り返って良かった点はまるで無かったと思います。1つあるとすれば、法を聞かねばならない、と素直に思えたことくらいでしょうか。

 機責めのゴールに阿弥陀仏が待っておられるのではなく、私のところに南無阿弥陀仏(法)がすでに働いて届いていることを詳しく懇ろに聞きたかった、とつくづく思うのでした。

 また、私にとって機責めは信心(他力の信心)に無関係でした。 そればかりか自力の心でもありませんでした。この事実の方がショックでした。長らく何やってきたんだ、、、。以降、見事なまでに仕上がった「異形の信心」に自ら対峙することとなったのです。

 後日談として。最初のブログを書くようになったある日、お同行から「身調べ」というのがあって、自己を突き詰めると最後は地獄一定のところまで行くみたいよ、と聞いたことを思い出しました。

以下引用です。

内観法の前身・身調べ

 内観の前身は、浄土真宗系の信仰集団、諦観庵(たいかんあん)に伝わる「身調べ」であった。なお一部に身調べが浄土真宗木辺派に伝わる修行法と紹介されているが、これは誤りである。また「隠れ念仏」「隠し念仏」とも誤解されるが、いずれとも無関係である。禅宗の修行法などという解説もあるが、論外である。

「身調べ」は断食・断眠・断水という極めて厳しい条件の下で自分の行為を振り返り、地獄行きの種が多いか、極楽行きの種が多いかを調べるというものだった。また、秘密色が強く、身調べの途中は親が来ても会わせないという閉鎖的なものだった。これにより、「宿善開発(しゅくぜんかいほつ)」または「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」という一種の悟りのような体験をして、阿弥陀仏の救済を確信するというものだったという。吉本は1936年(昭和11年)から4度にわたる身調べを繰り返し、1937年(昭和12年)11月、宿善開発を達成する。

(吉本伊信 Wikipediaより)

 おそらくこの流れだと、信心獲得の直前では極楽行きの種と言えるものがらなど無く、地獄行きの種しか持ち合わせていない私、という精神状況に達するのではないでしょうか。

 「機責め」と「身調べ」、行き着くところは似ているように思います。果たしてその終着点が信心獲得なのか、極めて疑問です。

※追記:こんなに否定文・否定内容の文章から成るエントリーは珍しいかも(^_^;)。