「ただ念仏」について、
極重の悪人はただ仏を称すべし
(正信偈)
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ
(高僧和讃)
しかし一方では、
速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり
(正信偈)
涅槃の真因はただ信心を以てす
(教行信証信巻)
歎異抄では、
ただ信心を要とす
(第一条)
ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし
(第二条)
これらから導き出されるのは、
往生の因は念仏、つまり称名正因。
往生の因は信心、つまり信心正因。
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Q:どういうことですか?
A: ただ仏を称す、 ひとへに弥陀を称して、ただ念仏して。ここに信心が含まれているのです。つまり「念仏一つが信心」ということです。
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このことを分かりやすく末灯鈔 には、
弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。
親鸞聖人は、「念仏一つ」にも「信心あさく」の自力信心(念仏)と、「ふかく信じて」の他力信心(念仏)があると峻別されました。
真実の信心は、必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり
(教行信証信巻)
「念仏一つ」と信じて称える念仏に、自力もあると釘を刺されています。
とんのつぶやき
学びと、そこからの考察を書きました。また忘備録として後から振り返って再考できるようにしました。