このこころえのとほりをもつて、すなはち弥陀如来の他力の信心をえたる「念仏行者」のすがたとはいふべし。かくのごとく「念仏の信心」をとりてのうへに、なほおもふべきやうは、さてもかかるわれらごときのあさましき一生造悪の罪ふかき身ながら、ひとたび一念帰命の信心をおこせば、仏の願力によりてたやすくたすけたまへる弥陀如来の不思議にまします超世の本願の強縁のありがたさよと、ふかくおもひたてまつりて、その御恩報謝のためには、ねてもさめてもただ念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の仏恩を報じたてまつるべきばかりなり。
(御文章3帖13通)
「念仏行者」が「念仏の信心」を獲る。
「御恩報謝の念仏」しかまともに聞いて来なかった者にとっての衝撃度は如何。
私がまさにそれでした。言葉自体に馴染みがありませんでした。見事にスルーしているんですね。2023年12月のことでした。
「念仏の信心」とは「念仏を信じる信心」、これが「他力の信心」であり、「念仏一つと信じた信心」であると学びました。言葉は大切です。まずは受け止めることから始まります。そこから自身に照らし合わせてみます。無理矢理ではなく、しっくりくるかどうか?
蓮如上人のお伝えしたかったことをなるべく深く、縁あるごとに柔軟に学びたいと思いました。