念仏者 とんのつぶやき

浄土真宗の信心、仕事、日常の出来事など思うところを綴ります。

仏願の生起本末 その2(2019年9月20日以来)歩みと味わい

 本願成就文の「聞」「信心」について、

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

教行信証信巻)

衆生

・他の誰でもないこの私が

仏願の生起本末

法蔵菩薩が本願を建てられたいわれ

・名号のいわれ

・本願成就して名号となって与えようと常に私の上にはたらいている

を聞きて

・をよくよく聞いて   ・・・ここはまだ信前

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★この段階で初めて疑心(自力の心)が生じる!

ここからが真剣勝負。そうしてからの、

疑心あることなし

・疑心が微塵も無い ・自力の心が廃る

・自力の迷情が破られる ・一心になる

・無疑心になる ・信順、帰命・・・

これを聞といふなり

・①→②→③→④このように聞いたのが聞即信の聞である→⑤

 この親鸞聖人のお言葉を書くのは何度目になるでしょうか。大事なところだと思っているからでしょうが、私の求道と味わいを交えて今回で区切りとします。

 誤解を恐れず「真剣勝負」「求道」「この段階」「段階」「関所」「到達」「スタートライン」という言葉を使います(本来真宗の救いに段階というのはありません。あくまでも今から過去を振り返って、という前提です)。

 なぜかと言うと、仏願の生起本末を正しく聞けば、人間であれば必ず出て来る「疑心」。これが当時は全く分からなかったからです。疑心・自力の心が分からないと、「疑心あることなし」と自力心が廃ることは絶対に有り得ません。当然の理屈です。

 所属していた布教使は、仏願の生起本末を正しく説いていませんでした。上記の段階で言うと①。②まで到達していませんでした。大きな問題はここにありました。間違った本末をぐちゃぐちゃに詰め込まれた異形の信心が出来上がっていました。

 マイナスからのスタートは、正しい法にあえた喜びもありましたが非常に苦しいものでした。お二人の善知識からほぼ一対一(私)、あるいは一対二(私と同行)で、間断なく聞かせて頂きながら、何が自力の心やら分かりませんでした。思うにおよそ半年以上に渡って、ただ今助ける本願に向かず、自力探しでもがき続けたように思います。

 ようやく自力の心が分かってきた頃から、本当の苦労が待っていました(ここからは人それぞれでありますが)。

 信心決定が人生のスタートラインである、と最初のブログで書いたことがあります。

 私にとって、自力の心が分かってきた★の地点が信心決定のスタートラインだったと言えるでしょう。そうして2009年の年末に雑行をすてて本願に帰す身となりました。

とんのつぶやき

 仏願の生起本末を聞いた③の段階が信心ではありません。肝心要の④の段階が抜け落ちています。そこには決して素通り出来ない関所というべきものがありません。

 ③の段階でもって信心決定したと思っている人は案外多いのではないでしょうか。

 ③の嬉しさと⑤の嬉しさは全く異なりました。自力心の有るか無いか。蓮如上人の仰る格別です。

 先生から思ったことはどんどん言葉にして下さいと勧められ、形にならないような心の内を、遠慮なく言葉に打ち出していました。そうしてまたお話を聞かせて頂きました。まさに対機説法だったと思います。信後すぐにブログも始めました。自分の為でありましたが、取り残された仲間を案じて綴りました。ブログをやり切った同行もおられ、私も卒業した一人でした。

 今は時代が変わっていました。受け止めるしかありません。当時が恵まれ過ぎていたのだと思います。

 諸行無常、何でもそうなんだと思います。このブログもそうですが区切りが近づいてきたと思います。