親鸞聖人における行信不離
しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。(中略)いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。
「行文類」行信利益(註釈版・一八六頁)
この行信は本願力回向の行信であり、名号の徳が私の上に称名となって私に疑いなく届いているのでありました。
このように学んだことを受け止めました。
念仏者とんのつぶやき
他方、「念仏して助かろうとか信心頂いて助かろうとかでもなく、本願成就で救われている」という内容が書かれてあるのを目にします。
この説をよく聞かれた方は皆、そのように救われているのだろうと受け止めます。
一つあるとすれば、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人は「念仏の信心」、今回の学びで言えば「本願力回向の行信」「他力の信心」ですが、上記の領解は「◯◯の△△」、素朴な疑問としてどう表現すればよいでしょうか。
行信不離について続けて述べてきましたが、これで区切りとします。
伝統教学にはしっかりした基盤、どっしり感があり、遠慮なく思いをぶつけてその跳ね返りを自己に問いかけることが出来るように感じています。
やはりただの凡人、基本中の基本だけでも気楽に学んでいきたいと思います。