念仏者 とんのつぶやき

浄土真宗の信心、仕事、日常の出来事など思うところを綴ります。

南無阿弥陀仏と私 その5(体験や感情と信心)

 体験・感情と信心の関係について思うところを述べておきます。

「こんな体験をした。だから信心を獲ている」

 これは成立しません。体験と信心とは無関係です。少し掘り下げてみます。

 団体トップの青年時代の獲信の体験記が再び注目されています。「次第にその迷雲も晴れ」「総てが包まれていたことに気がつくのだ」。これは鮮やかハッキリな体験をしていない部類でしょう。それに対し谷△氏などは、不思議な体験を具体的に記しています。

 他にも「弥陀の呼び声を聞いた」「生きた阿弥陀様に会えた」「阿弥陀仏に抱き摂られた」「お仏壇の本尊が眩くなった」「火に触ったより明らかな感覚」「びっくり仰天」など色々あるようです。

 むしろそれは浄土真宗に限らずとも、宗教体験として、さらに広げれば神秘体験、宇宙と一体化したり、強烈な光を見たり、神々しい感覚に打ちのめされたり、絶対的な感覚体験など、またスピリチュアル体験として無限に想起されるでしょう。

 ではこういった体験をしていない団体トップは信心が無く、谷△氏は信心が有るのかと言うと、どちらとも言えません。体験と信心の有無に関係性はありません。

 また、それは私の感情にも当てはまります。「嬉しさ一杯です」「地獄一定の苦しみを味わった」「喜びが溢れ出ます」「心からの懺悔があった」など色々ありましょうが、「だから信心を獲ている」とは言えません。あらゆる感情と信心の有無とは無関係です。

 そしてこれら2つに共通して言えることは、そうした体験や感情を、ほんの僅かでも頼りにする、あてにする、つかむ、すがろうとする思いがあれば、これを自力の心と言い、他力の信心ではありません。

とんのつぶやき

 信心と言っても阿弥陀如来の本願力をはからいなく受け入れているだけであって、この他に何もありません。だから体験や感情とは無関係、至って明快なのでした。

 ではどこに目を向けるべきでしょうか。

 「『教行信証』に説かれた教えは、「廃悪修善」という従来の仏教の考え方をくつがえし、阿弥陀如来の本願力をはからいなく受け入れるか(信)、それとも自力のはからいをもって拒絶するか(疑)によって、迷い続けるかさとりに至るかが決まる、いわゆる「信疑決判」という全く新しい仏教のあり方を示した教えでした。」

(「教行信証からひもとく浄土真宗の教え」はじめに、より一部抜粋)

 浄土真宗においては、阿弥陀如来の本願とそのおはたらき(本願力)、そこからの「信疑決判」、ここに着眼すべきであって、不思議体験や感情の劇的な変化にとらわれる意味や必要性は全くないことになりましょう。

 今回で南無阿弥陀仏と私について、区切りにしたいと思います。