親鸞聖人は信楽を「疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく」(『註釈版聖典』二三五頁)と仰る。疑いという蓋を間に雑えないことを信楽という。つまり容器に水を入れようとしても、蓋をしていたら中に入らない。そこで疑いという蓋を雑えないことによって、法の水が器の中に入ってくる。この器の中に本願の救いの法が届いていることを信心、信心の内容という。だから信心を「疑うこころのなきなり」と言います。「疑わない心」ではないのです。「疑う心がない」という状態なのです。だから信心は、「ない状態」を顕すので、つかまえようがないのです。信心をつかまえるなんてことはできないのです。
正信偈講座(梯實圓)P59より
前回のエントリー、「信心は、「疑い心」のない状態」の続きの文章を引用致しました。下線は勝手に引いてみました(^_^;)。
また、『信心は、「ない状態」を顕すので、つかまえようがない』と述べられています。「私には何もない」、と過去のブログで書いたことがありました。
とんのつぶやき
私の信心と言っても本来私のものではない。
ただただ救いの法を仰ぐばかり。まったくもって、法、すなわち、南無阿弥陀仏のひとりばたらきなのでありまして、あり続けています。