人間は考える葦である、という言葉があるように、私達が生きる意味を考えるのはごく自然なことだと思います。そして生きる意味について、なぜ生きるのか、どう生きるのか、この2つを分けて考えるのと一括りに捉えて考えるのと、どちらでも良いでしょう。いずれも「生きる意味」という枠に収まるものだからです。生きる意味を問うと言っても、人間の思考という枠組みの範疇です。
ここから前回の続きになりますが、仏に成ることと現代の私達の生きる意味とは相関性があるのでしょうか。
結論から言うと相関性はありません。
感情面からは、相関性があって欲しい、あるはず、いや、あるべきだと思いたいかもしれません。
人が生きる、私が生きる、その意味を問うのは意義あることかもしれませんが、私が、私が、我々が、、、と言う私に一様に固定した価値を与えているのは私であり私の都合であって、普遍的な存在価値を私に見い出すことと、仏の立場からみた人間の有り様や救いの手立て、そうして私が仏に成ることとは次元の異なる話であって交わらないものと思い至っています。
このことは現代人のみならず、いつの時代の人々にも当てはまることだと言えるでしょう。