念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

新春の慶び

 昨年もいろいろなことがありましたが、新年を迎えるたびに、シンプルに思うことがあります。

 確実に一つ年をとった、と。

 しかしながら、他力の信心を頂いている立場からは、確実に浄土往生に近付いたことになります。

 真に慶ばしき事、であります。

 ただし、これまで同様に、生きていく上では自身にいろいろな事態が起きて当然であり、その中をどう乗り越えていくのか、勉強だと思います。

 南無阿弥陀仏、忘れがちな南無阿弥陀仏を称えて讃嘆できるような一日を重ねたいと思います。

嫌なこと

 嫌なことがおきても決してそれは他人のせいではないですよ、というのが因果応報・自因自果ということでしょう。ただし、嫌なことと思っていたことが、時間が経つといい経験だったと反転することもあります。ややこしや、です。

 それでもどうにも腑に落ちない時は、申し訳ないですが仏様にぶつけておくのがよいかと思ったりします。

 念仏となえるご縁になる・・・、都合良すぎるかもしれませんが。

はが・の・をに

 「人生が目的」

 なるほど!と思いました。南無阿弥陀仏のはたらきに遇うことができるのは生きている今、つまり人生。そうであれば、各人の人生そのものが目的となる。貴重な時間ですね。

 「人生の目的」

このフレーズをこれまでいろんなところで耳にして、言葉そのものの捉え方についても考えてきました。

 スカッと線引きができた心地です。

 他のブログを読んで私なりの気付きをさせてもらいました。ありがたいことです。

チャンス

 もっと早くに◯◯の分野のことを知っていたらなあ、と思うことがあります。教えてくれる人や機会があれば良かったのに、と。

 けれどよく考えてみると、そういうチャンスは少なからずあったのではないかと思います。良い情報を耳にしながらも、その時の自分には関心が起きなかった、或いは心に響かずにスルーしていたのではないかと。

 これが縁というものなのかと思います。

 私の浅はかな知恵では、そのからくりは全く分かりません。

 人生、難しいところです。

死ぬことの意味

 普通、生きること以上に、死ぬことの意味はなかなか見出しにくいと思います。どんな思考の力でもって見出したとしても、死ねばその力も失うものだからです。

 南無阿弥陀仏に救われた人が亡くなることを、浄土真宗では「死ぬ」とは言わずに「往生する」と言います。

 浄土往生、浄土に往って仏に生まれるのです。

 そういう身にただ今救われてこそ、生きることと同様に、死ぬことの意味が見出せるのではないかと思います。

できる事は限られている

 世界で起こっているコロナウイルス関連の問題は、仕事柄のこともあり、どう対処するのが良いかとあれこれ思い悩みます。

 実際に自分にできることは、あまりに小さく限られた事でしかありません。割り切って、すべきことを淡々とこなしていこうと行き着きます。

 ましてや、この世から長い長い後生にかけての問題は、ただ今救うという南無阿弥陀仏におまかせするしかありません。