念仏者 とんのつぶやき

-往生浄土の身となり、いろいろな思いを残しておきます-

 自分ではどうしようもできないことには反応せずに、自分のできることに集中する。このようなことを言うトップアスリートや著名人がいます。なるほどと感心しますが、実行するのは至難の技だと思います。反応しないようにと反応してしまいます。

 なるべく悪縁には近づかないように、というのが賢明かもしれません。良い縁を求めていきたいものです。

キリがない

 仕事にはキリがないので、どこかで踏ん切りを付けるしかありません。一日のうちで一番ながく時間をかけているので強くそう思うのかもしれませんが、何事でもきっとそうなのでしょう。どこかでけじめをつけるべきものなのでしょう。

 そこで限られた命で何をするかが大事になってくるのですが、このままの私で救われていることほど有難いものはないと思い知らされるのでした。

置き忘れ

 先日、傘をある店に置き忘れたことをその日の晩に気付きました。店を出る時には雨が降っていなかったのと次の用事を考えていたからでした(次の日に傘を取りにいきました、一件落着)。

 気を付けないとな、と思いましたがこれまでも何度かやってます。誰でもそうかもしれないですね。自分の勤める店舗でも置き忘れ傘はちょくちょくあります。

 そう思いながら傘を持って歩いている時、信心だけはどれだけ忘れていようとも私から離れることはないぞと思い、ハッとしました。なんと有難いことかと念仏称えさせてもらいました。

 実に気楽です。

超世の悲願(他力の信心)

 努力して得られるものは我が身はもちろんのこと、他人や社会の幸せとなってあらわれてくるのだと思います。生き甲斐があるのはよいことですが、その道理を南無阿弥陀仏の救いに当てはめるのは間違いです。

 

 他力の信心は、文字通り阿弥陀仏の本願力によって用意された信心です。仏様のほうで努力は既に済んでいます。私のほうで用意するもの、努力することは何もありません。そもそも何も求められていません。

 例えば、すでに用意されたお宝を心からどうぞと差し出されているであれば、そのまま頂くのみです。ちょっと待ってくれと言いますか。相手は悲しみますよ。

 簡単すぎて信じられないのかもしれません。そんなうまい話があるものかと。この世の道理と合わないではないかと。

 次の瞬間死ぬかもしれない無常迅速の機である私に、何かする時間などなかったのです。

人それぞれ

 以前は、

「どの人も本質は同じで次の世は悪い世界に生まれる」

 ということを繰り返し聞かされ信じていました。こうなると、自己肯定感が下がる、どこか投げやりになる、死に対して過剰な恐怖感に襲われる、他人の良い言動を素直に見れない、など土台からネガティブな人生を送らざるを得なくなります。

 浄土真宗とはかけ離れていました。

 人それぞれ個性があって、素晴らしい人はたくさんいます。当たり前のことです。そういう人との縁を大事にしていきたいと思います。

 ただ、自力では往生できないという点においては、どの人も、そのまま助けるという南無阿弥陀仏を疑いなく聞き入れていただきたいと思います。

月末に思うこと

 月末には、店舗のいろいろな実績・結果が出てきて把握することになります。少なからず一喜一憂するのですが、どこか他人事と思えるのは適当な性格だからか、それとも仕事に真剣さが足りないからか。

 どちらにしても何事もほどほどが身体にもよいでしょう(笑)。きっちりしすぎた人は接しにくいですし。

 一年の半分が過ぎました。南無阿弥陀仏をとなえつつ歩んでいきたいと思います。

平等におとずれるもの

 年をとるほど月日がたつのを早く感じる、というのはこれまでを振り返るとその通りと感じます。気が付けば臨終、と言うのは大袈裟でしょうか。

 そんな中、念仏者とならせて頂けたことは不思議なことです。

 間違いないことは、時間は誰にでも平等に与えられていて一日生きたということは確実に一日後生に近づいたということです。淡々とした日常であっても、忙しさに追われた日常であってもそれは変わりません。平等であり冷徹であるのかもしれません。

 ただ南無阿弥陀仏を疑いなく聞きいれて、後生に近づくままが浄土に近づく、感謝の日々を送らせていただきたいものです。