念仏者 とんのつぶやき

お慈悲に包まれた日常と、浄土真宗の救いを綴ります^_^

下半期始まる オンとオフ

 もう10月、はやいものです。

 今日の散歩で、木々の並びからキンモクセイの特有の甘い香りが漂ってきました。

 抜けた力がもう一つ抜けた感じになりました。

 オンがあるからオフがある、けれどもオンはそれほど無くて大丈夫かな、と。

 呼吸を楽に平凡ながらもお念仏の日々を歩んで行こう。

すべてひっくり返っている

 救われてゆくしかない。

 助けさせて下さいと願って下されているのだからどうしようもない。じゃあ助けてもらおう。ずっと頭を下げて頼まれているのだから仕方ないか。

 考えてみると、助けてもらう此奴は一体何様のつもりか、と思えてきます。偉そうにふんぞり返って。いいご身分やなあと。

 しかし阿弥陀仏の仰せの通りにまかせてしまえばよいのでした。

 それなのに、そんな話があるか、ああでもない、こうでもないと理屈をこねる人ほど実は厄介なのでありました。それこそ自分を何様と思ってのことなのでしょう。

 自力を翻して他力に帰する。これだけでした。

南無阿弥陀仏と私 その6(2026年お盆)

南無阿弥陀仏(我にまかせて、必ず助ける)

だから、

南無阿弥陀仏(まかせ切った、必ず助かる) 

 この呼応が、いつの今(瞬間の連続)も成立している。切れ目なく相続している。それは不意に一声称える念仏によって明らかだ。助かるに微塵の疑い無い。疑心の出ようが無い。不思議という他ない。どうこうしようとも関係ない。たとえ称えずとも明らかだ。

 だから往生は一定。

 そして仏となって還るのだろう。往相回向と還相回向。これが浄土真宗、阿弥陀仏による救い、親鸞聖人の教えなのだから。

 おかげさまで2026年お盆も南無阿弥陀仏。

本願の呼び声

阿弥陀仏の本願、救いについての教義と領解。

①

そのまま救う →そのまま救われる

そのまま助ける→そのまま助かる

②

そのまま救われている→救われている(た)

そのまま助かっている→救われている(た)

〰️〰️

 阿弥陀仏の本願、救い、呼び声、仰せはどちらでしょうか?

 ①です。これは教義です。

 その本願に呼応した私の受け止め、領解は、そのまま救われる・助かる、となります。

 ②はどうか?。少し掘り下げると、

 救われている事に気付きなさい→救われていました、となります。

 危うい。

 特に信前の人に話す場合にはかなり注意が必要です。聞く側も相応の注意を要しますが、それを聞く側に求めるのは酷というものです。

 ①と②は明確に異なリます。

 今更こんな事述べるのもなあ、ああしつこいやっちゃ、と思いながらもつぶやきます。

浄土真宗を聞いて、驚くべきこと

 浄土真宗の救い、阿弥陀仏の救い、阿弥陀仏の本願は、今・ここの救いです。

 阿弥陀仏の本願、今・ここの救いを聞いて、

 「なぜ私は今、救われていないのか」

 この驚き。

 敢えて出発点があるとしたらこれでしょう。

 次の瞬間に死ぬかも知れないのが私の命。こんな私を目の前にして、

 「ちょっと待って、まずはねえ、19願を通らねば絶対に助からんのや!」

 人間でも偲びなくて言えません。ましてや阿弥陀様が言いますか?

 怪しい?、矛盾?、いや深い御心??(^_^;)。

 疑問が起きないとしたら、すでにやばいです。そして、そう言う布教使ってはたして、、、

念仏者の立ち位置 その6 1つの結論

 職場の納涼会に参加しました。

 環境は色々変化したけれど、基本的にする事は変わりません。提案される事はしっかりこなしていこう。いや違った、それなりに(^_^;)。

 誰でもいつかは一線を退きますが、この体力?と立場から、仕事仲間が幸せであって欲しいと思っています(すでに年寄りか^_^)。

 

 そしてお念仏喜ぶ立場、念仏者とんの立場としては、浄土真宗の救いに遇っていただきたい。

 阿弥陀仏の救いは常に、今・ここ、の救いです。必ず救われます。単純明快な教えですから。

 これが私の一番の願いです。

 私の考え着いた「念仏者の立ち位置」とは、言い換えると「私の願いの立ち位置」であって、それは究極には横並びの、共に他力の信心を喜びたいという思いから出た表現であったのかと思います。