念仏者 とんのつぶやき

お慈悲に包まれた日常と、浄土真宗の救いを綴ります^_^

休日のひとこま

 梅雨の午前、草木や紫陽花は鮮やかで、窓から見える田んぼや、その先の梅雨の曇り空で少し霞んだ山の緑もゆったりとした時間を感じさせてくれます。

 母もまったりとその中に溶け込んでいるように映りました。

 阿弥陀仏はこのありふれた瞬間も間断なく護って下さります。

 他力の信心獲たならば何が起ころうと往生一定に揺るぎ無し。実にありがたいことです。

やがてあらわに知られたり

 漫画、北斗の拳の名ゼリフ「お前はもう死んでいる」。

 鉄板の流れとして、ケンシロウにこのように言われた敵は、エッ?という戸惑いから間もなく死に至ります。的中率は100%です。

 「貴方はすでに救われています」

 「エッ?」となるがふつうですが、「そうですね」というのもありでしょう。ここは言葉だけでは判断できない領域。しかも思考とは別次元の信心の世界。

 こういうことも阿弥陀仏のお働きによって導かれ、やがて各々に明らかになってくるのでしょう。凡人は凡人なりに。先生方におまかせします。

 阿弥陀仏は確信をもって必ず助けるとはたらき続けています。

与えよう、ならば頂こう

如来の作願(さがん)をたづぬれば
苦悩の有情(うじょう)をすてずして
回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて
大悲心をば成就(じょうじゅ)せり

(正像末和讃)

 大悲心成就を喜ぶだけでは勿体ない。

 回向を首、つまり与えるのが目的。

 ならば計らいなく、そのまま頂きましょう。まるごとお任せ、全託です。

 重ねて言います。遠慮無用です。往生は丸投げですよ〰️!

 個人的に最も思い入れのある和讃です。取り巻く環境の変化によって当時とは違う味わいを持つようになりました。

念仏者の立ち位置 番外編②

 真実信心を与えようと用意されたのが南無阿弥陀仏の六字の名号。

 では私はどのように?

 そのまま受け取る、となります。モノではありませんが。

 大事なことは、何の計らいなく。まるごと、そのまま。

 南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と計らいなく、そのまま聞き入れているのが信心です。だから信心と言っても南無阿弥陀仏の他に何もないのでした。

 その信心がずっと相続して、していくので、ふとした時でも称名念仏となって出てきて下さります。

 いつでもどこでも南無阿弥陀仏。

 分別世界、相対世界において、これ以上の不思議は無いのではないかと思います。

念仏者の立ち位置 その5

 私が今日、生きている事、それ自体が奇跡である。自分1人では決して生きていけない、多くの人やものに支えられて生かされている。だから日々の人間関係や仕事、病、自然災害、事故、様々な困難にも、立ち向かって生きていこう。未来は案外開けている。

 こう思えたら十分に強く生きていけるでしょう。しかし、こう思えなくても平凡に生きてきた私が現にいる。言ってしまえば、このような事を思考することも殆どないのが正直なところ。

 人生や命の連鎖に特別な価値を見い出そうとするのはなく、思考を巡らせるのではなく、そこで留まり完結させるのではなく、主語を「私」から、「仏・仏の本願」に反転させるところの先に思考を遥かに超越した真の救いがあるのでした。

 阿弥陀仏の本願力にまかせ切った信心の行者が念仏者なのでありました。私には少しの持ち分も必要なく、そもそも何も持ち合わせていないのが私でありました。

念仏者の立ち位置 番外編① 私が

 極端な例外として浄土真宗系カルトは、「人生の目的」や「なぜ生きる」というフレーズを用いて、親鸞はこれ一つを明らかにされたと主張して信者獲得に躍起になっていますが、全く論外です。

 一つ挙げるとすると、世界中の人で一度も浄土真宗の教えに触れることなく生涯を終える人はどれくらいでしょうか。ほとんどと言っても過言ではないでしょう。これら大勢の人は蚊帳の外で、人生の目的を知らされた私は、仏縁の深い恵まれた選ばれし者なのでしょうか。

 果たしてこれは仏の視点に通じるのか?

 私が生きる目的、私が、私が、という私を固定観念的にみる思考を客観視する事は容易ではないようです。