母親が、桜並木の前で友達4人、並んで写っている写真を何気に見せてくれました。
皆さんいい笑顔です。春の陽気と桜のピンクが自然と顔をほころばせているかのようです。
今ここを、南無阿弥陀仏のおはたらきに疑いなく生きている母は真の幸せ者だと思います。
お念仏をよく称えていた祖父母も、お浄土からその姿を見守っているのだろう、と思いを馳せるのでした。
昔話です。
間違った浄土真宗の団体の話しを長年聞いて、強烈な選民意識や偏った教義理解をしていました。しかしながら、教祖の話しぶりやカリスマ性、団体のスタイルに酔いしれていた自分があったのも事実です。
ですので100%の責任が教祖や団体にあったとは思っていません。私にも素因があったのです。他人にも迷惑かけてきました。
ただ、 染み付いた思考や間違った教義解釈を認知し、そこからほぼ抜け切るには、今思うに相当な期間が必要でした。冷却期間があってよかったと思います。
そうでもしないと、反射的に違う性格を持った団体に、熟考せずに飛び込んでいく可能性をはらんでいました。
「私に限ってそんな事は無い」と思うのが常ですが、信後でも野心や反骨心は何ら変わりません。
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2010-04-21
知識(先生)の恩
以前、阿弥陀仏に向かったつもりが実は向かっていないことがありました。
ちょうど先生は私の後ろに立って、向きを阿弥陀仏に向けて下さる感じでした。
阿弥陀仏と私の間に立つのでなく、後ろです。
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久しぶりに過去3年間余り続けていたブログ「往生は投げた」に目を通しています。
信後の生活を顧みるよい縁になりそうです。
当時のエントリーをそのまま載せて、率直に思うところを過去の自分につぶやきしようと思います。今回はその1です。
Nowとんのつぶやき
自力が何やら分からず、自分の心の動きばかり追い求めている時期がありました。そうではないよ、阿弥陀様に向かって下さいと繰り返し聞かせて頂いたのでした。
なむあみだぶつと私との一対一のぶつかり合い、先生方は脇役、裏方なのでありました。
だから今も敬うことができるのでしょう。