念仏者 とんのつぶやき

浄土真宗の信心、仕事、日常の出来事など思うところを綴ります。

葛藤

 ああしたらいいのにな、こうしたらいいのにな、と思うことがあります。

 だけどほっとく。なぜか?

 関係無いから。面倒だから。力が無いから。嫌われるから。つくづく凡人だと痛感します。

 しかし仕事となればそういう訳にはいきません。職場や顧客を疎かに出来ません。

 だけどほっとく時もある。なぜか?

 本人の気付きを待つ、最終的にそれが本人の為になると思うからです。でも個性が強い。

 言いたくても言わない。しばらく待とう。待ってみよう。もうしばらく。どうや。我慢していると先に同僚がバシッと注意。こうしなさい!

 ああ、ありがとうございます。やはりすぐに言えば良かったかな。

方向転換

 生きたく(楽しく)ても死んでゆかねばならない。死にたく(苦しく)ても生きてゆかねばならない。

 希望に満ちた未来を地震や事故などで一瞬にして奪われたり、災難に遭って辛抱の日々を送る人を連日のように見聞きします。

 その時に感じるやりきれなさや哀しみ、しんどさや嘆きは同じ人として至極当然な反応なのかもしれません。

 これら当事者や第三者(私)の思いを変えたり減らしたりするのでなく、浄土往生して仏と成り、等しく救済される側からする側へ、まわらせて頂くのが浄土真宗の究極の救いでありました。

タラレバ信心

 救われたら、救われれば、ガラリと心が変わる。救われた瞬間がはっきりする。驚きがある。喜びがある。そうでなければ救われたとは言えない。

 どれだけ正そうとしても一念覚知、歓喜正因を頑なに主張する方があるようです。

 この主張の語尾には「はず」が隠れています。心が変わる「はず」、はっきりする「はず」、驚きがある「はず」、喜びがある「はず」。根底に希望と願望、意地とプライド、祈りと枯渇、不安と葛藤、自己矛盾と自己満足、様々な思考が入り混じっているようです。

 結果としてお聖教を自分にとって都合の良い道具としか捉えることが出来ません。いわゆる洗脳の世界を生きています。

 浄土真宗、極めてシンプルな現在ただいまの救いを拒絶して、俺が俺がの我執、きっとこうなる筈との未来予想。そこに「救いの時」は永遠にやってきません。

 他力信心から最も遠い存在なのかもしれませんが、そのような人にも南無阿弥陀仏ははたらき続けています。

^_^ぼっち信心の沙汰 雲泥の差、元旦のつぶやき

2011-08-02
雲泥の差

勝ちとって守る苦労と 負かされて護られる楽

N o wとんのつぶやき

 やったー、救われましたよー。

 よし、信心決定したぞー。

 ありがとうございます!達成しました!、そんなノリではなかったです。努力して聴聞して、阿弥陀仏が、よし任せなさいと応えて下さるのではありません。

 阿弥陀仏は私が気付くよりもずっと昔から、ただ今助けると呼び続けておられます。なのにどうして私は救われないのか。どうしたら、どう聞いたら、どう称えたら。

 その、どう、が少しも出ようが無くなっていました。自力の迷情が破られていました。全くもって阿弥陀如来の本願力によるもの、頑固な自力心を負かして下さりました。

 そして疑心無き状態はいつの今も相続しています。他力の信心です。意識しようがしまいが認知症になろうが関係なく生涯に渡って信心を護って下さります。命尽きれば浄土往生、さらに還相回向、これが浄土真宗です。これほどの楽、ありがたいことはないでしょう。

 元旦もやはり南無阿弥陀仏

大晦日のつぶやき2024

 年末年始の定番とされるスタイル(大掃除、おせち料理の準備、家族親戚が一堂に会して団らんなど)が崩れつつあります。逆にそのような習慣からはみ出る人達が抱いてきた苦しみや疎外感が取り上げられるようになったと感じます。

 定番はいつまでも定番ではなく、時代の流れや社会の変化で変化していくものだと感じます。更には定番すら批判の対象になる、これが多様性の一面なのかもしれません。しかし、どれだけ多様性を肯定してもマイノリティを尊重しても生きづらさから完全に逃れることは困難です。

 そんな世の中にどっぷりと浸りつつ真に救われたというのは信心決定以外にはないでしょう。

 やはり行き着くところは南無阿弥陀仏しかないのでありました。 

命をかけて

 文字通りこの世には「命をかけて」何かに取り組む人が相当数いると思います。実際に命を落とすこともあります。内容にもよりますが、命懸けの姿勢や態度に触れた時はずしりと胸に迫るものがあります。

 私が聞いていた布教使も説法や講義で何度か、「私は命をかけて法を説いている」と語るのを聞いたことがあります。しかし、肝心のその話す内容がほとんどデタラメであることが、ネット上で丁寧に完膚なきまでに示されています。情報化社会のうねりに耐えられずに駆逐され淘汰された状態になっています。

 はたしてそうなった時に発せられる「イノチヲカケテ」にはどれだけの値、重み、凄みがあるのだろうか。いや、全く感じられないどころか、言葉そのものの価値を貶める、記号の羅列にすぎないのでないかと思います。

 全てが清算される時を静かに待っています。

update

 今年後半は急ぐつもりはなくても限界を迎えたモノがいくつも出てきました。

 エアコン、洗濯機、パソコン、お世話になりました。

 家周りの草木もそれなりにきれいにしてもらいました。ありがとうございます。柿の木もスッキリしました。

 これらを機に自身のミニマリストの道も楽しみたいと思っています。不要なモノを減らしてモノに使われないように。

 どちらにしても臨終には何一つ持って行けませんが、全ての種まき何もかも、まるごと阿弥陀仏におまかせしてあります。南無阿弥陀仏、私の後生に何の不足もありません。