念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

本願成就で救われるという表現について その3

 本願成就文の「」と「信心」の関係について親鸞聖人は、

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

教行信証信巻)

  仏願の生起本末を聞きて「疑心あることなし」が「聞」だと言われています。 仏願の生起本末をいた「」ではありません。「疑心あることなし」とは疑う心のあることが無い様(さま)・状態を言います。

聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

(一念多念証文)

 ここでも、本願をきて、が聞くではなく 本願を聞きて「疑ふこころなき」が「聞」だと言われています。

また聞くといふは信心をあらはす御のりなり。

 と言われます。つまり第18願の教法を聞いたそのままが信心であります。このことを「聞即信」といいます。

信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

 と重ねて述べておられます。「聞く」と「信心」について同じ説明がなされています。

とんのつぶやき

 まとめとして、

本願を疑いなく聞いて(信じて)救われる」

 この表現が適切でしょう。

 以前にも、「聞く=信心」のタイトルで3回続けてブログを書いていました。今回とりあげた教行信証信巻と一念多念証文の2つのお言葉が個人的に惹きつけられます。気付けばこれを基にして法話や文章がしっくりくるか、正しいかどうか判断するようになっていました。

 今後も、これはと思ったり同行から紹介された文章などがあれば、自身の信心にも照らして述べていきたいと思います。

 あくまでも法を仰ぐのが本来の悦びですが、結果として信心の沙汰にもなればありがたいことです。

本願成就で救われるという表現について その2

 本願は成就しています。本願には衆生を救う力(はたらき)があります。

 私は何で(によって)救われたのかと言うと、

・本願力で救われました。

・本願の救いのはたらきで救われました。

 どのように救われたのかと言うと、

・本願力におまかせして救われました。

・本願の救いのはたらきにおまかせして救われました。

 ここで言うところの、おまかせしているか否かが分かれ目です。「おまかせした」のが信心です。

 本願が成就していることを知ったのが信心ではなく、その本願力に「おまかせした」のが信心です。言い換えると本願力に「遇(あ)った」のが信心です。

 本願成就の事実は聴聞で誰でも知ることができます。

 仮に、本願成就🟰私の救い、の解釈ならば七高僧方や親鸞聖人の出る幕はありませんし浄土教の存在意味はありません。

 そんな解釈だとすれば、

本願力にあひぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし

高僧和讃

 本願力に遇(あ)って、むなしく過ぎる人生が仏果を得る功徳の人生に転換されたことを慶ばれた親鸞聖人のお気持ちが、微塵も分からないでしょう。

往生は一人のしのぎなり。一人一人仏法を信じて後生をたすかることなり。

(御一代記聞書)

 このように仰られた蓮如上人は笑いものになってしまいます。

とんのつぶやき

 断章するつもりは全く無く、文脈やお話しの前後を把握しないと結論出来ませんが、今回の内容が的を得ているのならば大変危険な事です。

 念仏者とんの聞き誤り、であるに越したことはありません。南無阿弥陀仏

本願成就で救われるという表現について

 他力の信心、自力の信心、以外にもう1つ。

「(浄土真宗は)本願成就で救われる(教え)」というフレーズをよく耳にしました。

 本願成就や名号のはたらきは「事実」であって、それがそのまま「信じたこと」「信心」にはなりません。そうであるので、救われているか否かの信疑決判の対象にはならないものと受け止めます。

 具体的にはお釈迦様の本願成就文は、字の通り本願の成就を告げた文であり、いわば本願文の参考書です(適切な表現か?(^_^;))。ですからそれを聞いてどれだけ喜びに溢れているとしても、それは感情の類いであって信心とは別物です。信か疑か、論じる以前の事です。

 あくまでも、本願を聞いて疑い無きが信心です。

 また阿弥陀仏釈迦牟尼仏、本願と本願成就文を線引きした思考だけで信心を語るには無理があるように思います。

久遠実成阿弥陀仏
 五濁の凡愚をあはれみて
 釈迦牟尼仏としめしてぞ
 迦耶城には応現する

浄土和讃

親鸞聖人が言われているからです。客観的に考えればそれは容易に合点出来ます。

 基本的には自身で信心の沙汰が出来ると思っていますが、人間の事を「機」と言われるように一筋縄ではいかない、あらゆる事を思考する可能性があるのが私という者。やはり正しい信心と念仏の話を聴聞し、内なる思いを善き師に打ち出すのが良いようです。

 今年は何かと学びが多くお念仏が増えています。ありがたいことです。

宿善を論じる前に

 以前に、1度だけ真面目に書きます、と宿善について書いたと思います。

(「宿善について」2019年10月15日)

 宿善を論じる前に思うことは、まず救われましょう。それからであれば、どれだけ時間をかけても良いと思います。

 ただし、今日やった善が明日の宿善になる、という捉え方では今晩の後生に間に合いません。誤りです。今救われる平生業成にも合いません。捉え方そのものを捨てないと宿善は合点出来ません。

 平生業成と明日の宿善論。綺麗に矛盾しています。ここに気付けるかどうか、宿善があるか無いかの分かれ目なのかも知れません。

私の称名になる前の名号は無い

衆生の称名になる前の名号は無い。

私どもに称えられる前の南無阿弥陀仏が、どっかにあるというお領解は、間違いだということ。
南無阿弥陀仏というものは、私に称えられて南無阿弥陀仏。私に称えられて南無阿弥陀仏、です。

(印象に残った法語)

 南無阿弥陀仏衆生を救うはたらきそのものです。そのおはたらきを疑いなく受け容れたのが信心です。なので信心と言っても、「信心」という「モノ」や「ナニカ」が何処かや心の中に「有る」のではなく、「微塵の疑い無き様(さま)・状態」をいいます。

 あっけらかんに言うと、信心のものがらは「何も無い」「空っぽ」なのでした(適切な表現か?(^_^;))。私に称えられて南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

極めてシンプルです

念仏成仏これ真宗

 万行諸善これ仮門

 権実真仮をわかずして

 自然の浄土をえぞしらぬ

浄土和讃

 

本願を信じ念仏を申さば仏になる

歎異抄第12章)

 

南無阿弥陀仏というものは

 私に称えられて

 南無阿弥陀仏

(印象に残った法語)

 何度読んで(聞いて)もその通り。しっくりきます。飽きません。

 称える南無阿弥陀仏のまんまが信心です。

 そもそも読み書きの出来ないような庶民が救われる教えとして、浄土教が確立されたわけです。理屈をこねだすと、あっという間に大コケします。

ハッキリするという表現について 最終

 浄土真宗の他力の信心を語る時に、ハッキリするという表現はあまり好ましくないというか、しっくりこないと感じています。

 以前にも書きましたが、救われる瞬間がどうこうより、今救われているかどうかが大事だからです。今の連続が今日であり明日であり生活だからです。

 それならば、ハッキリしている、と言えば良いではないかと思えますが、違和感があります。信心は相続していますが普段意識することはあまりないからです。朝起きて、仕事に行って色々悩んだり上手くいって喜んだり。休みの日には家族の世話をしたり、してもらったり、ゴロンとしたり、、、^_^。何も変わらない日常がそこにはあります。いつでもハッキリしてます、という力みのようなものがありません。逆に、往生スッキリハッキリです、と覚醒した状態が続くのならば疲弊して心身がもたないでしょう。

 ではどういう表現がしっくりくるか。本願力回向によって本願のまことを、自力では間に合わず他力しかなかったと知らされている、信知という言葉がやはりピッタリではないでしょうか。

 浄土真宗における意味はもっと深いようですが、法を仰げば、ただ今助ける本願に疑い無きを本願力によって知らしめて下さります。その1番身近な機会は普段から称えているところのお念仏です。いつでもどこでも、これほど行じ易い行は無いでしょう。

 何も変わらない日常生活で、大変わりした南無阿弥陀仏の称え心。そのまま助ける、そのまま来いとの呼び声を、自らの称名念仏を通してそのまま、はい、と聞かせて頂くのでした。南無阿弥陀仏を通して阿弥陀仏と対話している、と表現する人もあります。

 たまに母親とお仏壇に並んで称える念仏に、共に微塵の疑心もなく、一味の信心を有難く思うのでした。このように常にいただけるのが浄土真宗の信心でしょう。

 最後になりますが、救われた瞬間がハッキリしていなければ救われたとは言えない、と言うのは一念覚知と言われる異安心です。つまり本願ではないので、この間違った考え方そのものを捨てない限り浄土真宗の教えを聞いたことになりません。