念仏者 とんのつぶやき

お慈悲に包まれた日常と、浄土真宗の救いを綴ります^_^

念仏者の立ち位置 その3

 浄土真宗、当然ですが仏教です。仏教の中の浄土教、その浄土教における一宗派ですから、仏教の教理を外れた浄土真宗というのは有り得ません。

 仏教の目的は、成仏、仏に成ること。実際の仏教系宗教は、目的としているところは現世利益的なことであったり社会貢献であったり、まちまちかもしれませんが、本来のそれは成仏、これに尽きます。仏という悟りを開いて永遠に一切の迷い苦しみから解き放たれることです。

 その手段に2通りあります。

 この世で修行を積んで仏の悟りを開くのか、それとも来世に渡って長い期間をかけて修行を積んで仏を目指すのか。

 これに対して浄土真宗では、修行を積めるような私ではないと観て、阿弥陀仏の本願力に全てを委ねて流転輪廻の迷苦から、ただ今救われる。これを信心決定、現生正定聚と言います。そして死後に浄土往生すると同時に仏の悟りを開く。つまりこの世と死後の2度の救いを説くのが浄土真宗ですが(これを現当ニ益と言います)、あくまでも究極の目的は、仏になることです。仏教の土台に立っているのですからこのことに何の不思議もありません。

 では、仏に成ることと現代の私達の生きる意味とは相関性があるのか。

 そもそも私は元より、自身の流転輪廻からの解脱を求めて浄土真宗法話を聞くようになったのか、何をどうしたいと願ったのか、他の方々はどうなのか、まったりと続けたいと思います。

念仏者の立ち位置 その2

 念仏者とは阿弥陀仏の本願に救われた人、信心決定した人、他力信心の人、など色々な言い方があります。ただ南無阿弥陀仏と称えていれば誰でも念仏者なのかと言うと、そうではありません。

 そもそも阿弥陀仏から何を救って頂いて信心決定の人と言うのか。

 ここはとても大事なところだと思います。多様性の現代において、阿弥陀仏の救いは今を生きる私たちにどういう意味をもつのか?、あるいは与えてくれるのか?。

 私が10代のころ、初めて聴聞会場に来た男性から、あなたは若いけど何か苦しいことがあったのかと尋ねられました。いや、特にこれっていうのはないです(浪人生だけど、、、)と答えたところ、苦しくもないのに何でこんな話を聞きに来たのかと驚かれたのを覚えています。

念仏者(救われている者)の立ち位置 その1

 時が過ぎていくのは皆平等、2026年を迎えています。

 あけましておめでとうございます。確実に一年歳をとりましたが、おめでとうございますと言い切らせてもらうことが出来ます。欲や怒りや愚痴に苛まれ振り回され、それでも生きたい執着は微塵も変わっていませんが、この身このまま往生一定です。

 学者の論文のようなエントリーですが、全く違います。あくまでもつまらない凡夫の立場から、しばらく好き勝手に述べてみたいと思います(気が乗らなければ、あっという間に終わる可能性も大です(^_^;))。

仕事納めと浄土真宗の勧め

 仕事納め!、、、、、、色々でした(^_^;)。ようやった(自分で自分を褒めてあげたい)。

 思うままに記します^_^。

 全く浄土真宗のお話を聞いたことの無い方の場合には、私が生きていく中でどういう意義があるのか?、そもそも聞く価値があるのか?、聞いても聞かなくても別にどうでもいいのではないか?など根本的なところから聞かせてもらうべきかと思います。

 人、つまり私は必ず一度は死ぬ。当たり前のこと。では、死んだらどうなるのか?。仏道の出発点と言えるでしょう。

 しかし、死について、大きな壁があります。

 死んだら死んだ時、考えても分かることでも解決できることでもないし、意味も無い。また暗くなるだけだろう。それよりも今を精一杯楽しく生きようではないか。

 大概はこんな感じではないでしょうか?。

 いや、実際のところほとんどは、無関心、の一言に尽きるのではないかと感じています。

 多様性の時代、死の問題を別にしても、一生のうち、何にでも関心をもって時間をかける余裕も思考も無いだろうし、不可能でしょう。また、気が付けば圧倒的な情報量に翻弄され心穏やかになりにくい現代です。

 考えても無理、無関心、情報の海、これらの壁。

 そしてもう一つの大きな壁は宗教に対する偏見と、浄土真宗に対する誤解と無関心。

 厳しい現実、、、。五濁悪世と教えられる通りの時代。

 そんな中で阿弥陀仏の本願力に救われたのは、正に宿縁としか言いようがありません。

 たまたま行信を獲ば遠く宿縁を慶べ

(思いがけず救われたならば、遠く過去からの因縁を慶びなさい)。

 親鸞聖人のこのお言葉がいよいよ身に染みて嬉しい。こんなつまらない自分がどうして救われた?。有り得ないこと。法を仰げば安堵の呼吸。

 死後、輪廻転生から解放され脱却し、一切の苦しみや悩みの滅した浄土という清らかな世界に生まれて、仏にならせて頂く。そして衆生済度させて頂く。それは死んでみないと分からないのではなく、今ここ、生きている今、各々の実感(正確には無疑心)を以て確約されてしまうのです。他力本願、阿弥陀仏の救いとはこういうことです。

 そうでなければ業報輪廻、生まれては死に生まれては死に、苦しみの連鎖から逃れることが出来ないと仏教、当然浄土真宗でも教えられる通りです。

 これを阿弥陀仏の本願力によって解決できるというのでが浄土真宗なんです。ちょっとでも聞いてみたいと思いませんか?山あり谷ありの人生を生き切った後、いわば明日より確実な死後、果てしなく続く業報輪廻から脱却して極楽往生したいと思いませんか?。

 死んだらどうなるのか、絶対に避けて通れない死後の問題。それは、今ここ、を生きている私の問題であるのです。蓮如上人は後生の一大事と言われます。

 浄土真宗の信心(他力回向の信心)を頂いて、丁寧に他力の信心、浄土真宗の核心部の話しをされる僧侶は殆どいないよう(私見)ですがおられます。

 以上今年最後(の予定?)のつぶやきでした。

 しっかり休むぞ!読書もしよう!

大コケ

 イベントで、長年履いていなかった靴を何とはなしに履いて、靴底が見事なまでに剥がれたことを人に見つけてもらい赤っ恥をかきました(^_^;)。

 こういう時に過去の色んな生き様が思い出されて、また周囲の心境を勝手に察して必要以上にショックを受けてしまいました。

 生きてく上でのマナーでコケることは避けたいのですが、どうしても出来が悪い。

 お粗末なつまらない私が見栄を張る。生きる為、やりたいならそれはそれでとことん張ってやれ。

 こんな者、後生はそのまんま阿弥陀仏に丸投げしてお任せする他ありません。