貴重な時間を割いたのに、中身のない浄土真宗の話しを聞かされたとしたら本心喜べる訳が無い。
湧き出る心の声に自ら蓋をしているとすれば、何と滑稽で勿体ない事ではなかろうか。
人間味を放棄させられてはいないか。
そんな状態では、ただ今救われてくださいの勅命が響いて来ないだろう。
①
火に触るより明らか
驚天動地
スッキリ
ハッキリ
アッ
びっくり仰天🤭
②
次第にその迷雲も晴れた
総てが包まれている事に気が付いた
⚔️
もう別にどっちでもいいけれど同じ人が言っているのは頂けない。
もう10月、はやいものです。
今日の散歩で、木々の並びからキンモクセイの特有の甘い香りが漂ってきました。
抜けた力がもう一つ抜けた感じになりました。
オンがあるからオフがある、けれどもオンはそれほど無くて大丈夫かな、と。
呼吸を楽に平凡ながらもお念仏の日々を歩んで行こう。
救われてゆくしかない。
助けさせて下さいと願って下されているのだからどうしようもない。じゃあ助けてもらおう。ずっと頭を下げて頼まれているのだから仕方ないか。
考えてみると、助けてもらう此奴は一体何様のつもりか、と思えてきます。偉そうにふんぞり返って。いいご身分やなあと。
しかし阿弥陀仏の仰せの通りにまかせてしまえばよいのでした。
それなのに、そんな話があるか、ああでもない、こうでもないと理屈をこねる人ほど実は厄介なのでありました。それこそ自分を何様と思ってのことなのでしょう。
自力を翻して他力に帰する。これだけでした。
南無阿弥陀仏(我にまかせて、必ず助ける)
だから、
南無阿弥陀仏(まかせ切った、必ず助かる)
この呼応が、いつの今(瞬間の連続)も成立している。切れ目なく相続している。それは不意に一声称える念仏によって明らかだ。助かるに微塵の疑い無い。疑心の出ようが無い。不思議という他ない。どうこうしようとも関係ない。たとえ称えずとも明らかだ。
だから往生は一定。
そして仏となって還るのだろう。往相回向と還相回向。これが浄土真宗、阿弥陀仏による救い、親鸞聖人の教えなのだから。
おかげさまで2026年お盆も南無阿弥陀仏。
阿弥陀仏の本願、救いについての教義と領解。
①
そのまま救う →そのまま救われる
そのまま助ける→そのまま助かる
②
そのまま救われている→救われている(た)
そのまま助かっている→救われている(た)
〰️〰️
阿弥陀仏の本願、救い、呼び声、仰せはどちらでしょうか?
①です。これは教義です。
その本願に呼応した私の受け止め、領解は、そのまま救われる・助かる、となります。
②はどうか?。少し掘り下げると、
救われている事に気付きなさい→救われていました、となります。
危うい。
特に信前の人に話す場合にはかなり注意が必要です。聞く側も相応の注意を要しますが、それを聞く側に求めるのは酷というものです。
①と②は明確に異なリます。
今更こんな事述べるのもなあ、ああしつこいやっちゃ、と思いながらもつぶやきます。