本願成就文の「聞」と「信心」の関係について親鸞聖人は、
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり。
(教行信証信巻)
仏願の生起本末を聞きて「疑心あることなし」が「聞」だと言われています。 仏願の生起本末を聞いた「聞」ではありません。「疑心あることなし」とは疑う心のあることが無い様(さま)・状態を言います。
聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。
(一念多念証文)
ここでも、本願を聞きて、が聞くではなく 本願を聞きて「疑ふこころなき」が「聞」だと言われています。
また聞くといふは信心をあらはす御のりなり。
と言われます。つまり第18願の教法を聞いたそのままが信心であります。このことを「聞即信」といいます。
信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。
と重ねて述べておられます。「聞く」と「信心」について同じ説明がなされています。
とんのつぶやき
まとめとして、
「本願を疑いなく聞いて(信じて)救われる」
この表現が適切でしょう。
以前にも、「聞く=信心」のタイトルで3回続けてブログを書いていました。今回とりあげた教行信証信巻と一念多念証文の2つのお言葉が個人的に惹きつけられます。気付けばこれを基にして法話や文章がしっくりくるか、正しいかどうか判断するようになっていました。
今後も、これはと思ったり同行から紹介された文章などがあれば、自身の信心にも照らして述べていきたいと思います。
あくまでも法を仰ぐのが本来の悦びですが、結果として信心の沙汰にもなればありがたいことです。