念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

真実信心と今年の異安心 まとめ

信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

教行信証信巻)

 信心とは、南無阿弥陀仏を与えて下さる信心だと言われます。

信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

 (一念多念証文)

「信」はうたがひなきこころなり、すなはちこれ真実の信心なり。

(唯信鈔文意)

 信心は、本願(南無阿弥陀仏のおはたらき)を聞いて疑い無い心であり、これが真実の信心だと言われます。

 親鸞聖人の仰る信心は一貫しています。しかも簡潔かつ明瞭で誤解の余地が無いと思うのです。

 ところが、

すでにお救いのど真ん中だよ信心

完成したはたらきがすでに届いてるよ信心

念仏も信心も何もかも不要だよ信心

「とにかく聞けよ!」信心

「聞く1つだった!」ハッキリだよ信心

 何がどうなってんだか (^_^;)。

 さすがにしんどくなりました。これで一区切りとします。

何とかなっています

キット、何とかなる。

 母と食べたお菓子の封に書いてありました。あれこれ考える母は、それを見て笑いました。

 この世のことでも大概のことは何とかなるものです。というか時は勝手に過ぎていきます。

 後生は阿弥陀仏におまかせ。何とかなるどころか間違いなく何とかなっています。

 まかせなさいの喚び声におまかせするだけでした。

とん斬り

⚫︎コロリ

知識「私のことを◯◯と言う人がいますが、私は◯◯ではありません。」

同行「本人が言うのだから間違いない。」

とん「ちゃっかり◯◯。◯◯は、異安心、十劫安心、無帰命安心、一念覚知、土蔵秘事、善知識だのみ、その他詰め合わせ、そんなのが入るよ。」

⚫︎正直者

知識「お前は既に救われている!」

同行「やったー、ありがとうございます!」

知識「お前も既に救われている!」

とん「え?」

⚫︎お聖教

知識「私はお聖教にはこう書いてある、という立場で話しています。」

同行「なるほど。」

とん「解釈違ってるよ。」

シンジンの華が咲き乱れる

「祈祷も、善も、念仏も、信心も、必要ありません。」

 最近あちらこちらで目にするようになりました。祈祷は論外、善ならまだしも、念仏も信心も必要がない「浄土真宗の信心」ってナンでしょうか?

 新たな語句の定義が必要のようです。

 真実信心の念仏者でも間違うことがあるのだから、売僧の手にかかれば信心も念仏もナニモノにでも化けるのでしょう。

 少なくともその念仏と信心は、

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

教行信証総序)

 親鸞聖人が仰る真実の行(念仏)信(信心)とは全く異質なナニカでしょう。

本願成就で救われるという表現について その3

 本願成就文の「」と「信心」の関係について親鸞聖人は、

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

教行信証信巻)

  仏願の生起本末を聞きて「疑心あることなし」が「聞」だと言われています。 仏願の生起本末をいた「」ではありません。「疑心あることなし」とは疑う心のあることが無い様(さま)・状態を言います。

聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

(一念多念証文)

 ここでも、本願をきて、が聞くではなく 本願を聞きて「疑ふこころなき」が「聞」だと言われています。

また聞くといふは信心をあらはす御のりなり。

 と言われます。つまり第18願の教法を聞いたそのままが信心であります。このことを「聞即信」といいます。

信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

 と重ねて述べておられます。「聞く」と「信心」について同じ説明がなされています。

とんのつぶやき

 まとめとして、

本願を疑いなく聞いて(信じて)救われる」

 この表現が適切でしょう。

 以前にも、「聞く=信心」のタイトルで3回続けてブログを書いていました。今回とりあげた教行信証信巻と一念多念証文の2つのお言葉が個人的に惹きつけられます。気付けばこれを基にして法話や文章がしっくりくるか、正しいかどうか判断するようになっていました。

 今後も、これはと思ったり同行から紹介された文章などがあれば、自身の信心にも照らして述べていきたいと思います。

 あくまでも法を仰ぐのが本来の悦びですが、結果として信心の沙汰にもなればありがたいことです。

本願成就で救われるという表現について その2

 本願は成就しています。本願には衆生を救う力(はたらき)があります。

 私は何で(によって)救われたのかと言うと、

・本願力で救われました。

・本願の救いのはたらきで救われました。

 どのように救われたのかと言うと、

・本願力におまかせして救われました。

・本願の救いのはたらきにおまかせして救われました。

 ここで言うところの、おまかせしているか否かが分かれ目です。「おまかせした」のが信心です。

 本願が成就していることを知ったのが信心ではなく、その本願力に「おまかせした」のが信心です。言い換えると本願力に「遇(あ)った」のが信心です。

 本願成就の事実は聴聞で誰でも知ることができます。

 仮に、本願成就🟰私の救い、の解釈ならば七高僧方や親鸞聖人の出る幕はありませんし浄土教の存在意味はありません。

 そんな解釈だとすれば、

本願力にあひぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし

高僧和讃

 本願力に遇(あ)って、むなしく過ぎる人生が仏果を得る功徳の人生に転換されたことを慶ばれた親鸞聖人のお気持ちが、微塵も分からないでしょう。

往生は一人のしのぎなり。一人一人仏法を信じて後生をたすかることなり。

(御一代記聞書)

 このように仰られた蓮如上人は笑いものになってしまいます。

とんのつぶやき

 断章するつもりは全く無く、文脈やお話しの前後を把握しないと結論出来ませんが、今回の内容が的を得ているのならば大変危険な事です。

 念仏者とんの聞き誤り、であるに越したことはありません。南無阿弥陀仏

本願成就で救われるという表現について

 他力の信心、自力の信心、以外にもう1つ。

「(浄土真宗は)本願成就で救われる(教え)」というフレーズをよく耳にしました。

 本願成就や名号のはたらきは「事実」であって、それがそのまま「信じたこと」「信心」にはなりません。そうであるので、救われているか否かの信疑決判の対象にはならないものと受け止めます。

 具体的にはお釈迦様の本願成就文は、字の通り本願の成就を告げた文であり、いわば本願文の参考書です(適切な表現か?(^_^;))。ですからそれを聞いてどれだけ喜びに溢れているとしても、それは感情の類いであって信心とは別物です。信か疑か、論じる以前の事です。

 あくまでも、本願を聞いて疑い無きが信心です。

 また阿弥陀仏釈迦牟尼仏、本願と本願成就文を線引きした思考だけで信心を語るには無理があるように思います。

久遠実成阿弥陀仏
 五濁の凡愚をあはれみて
 釈迦牟尼仏としめしてぞ
 迦耶城には応現する

浄土和讃

 このように親鸞聖人が言われているからです。客観的に考えればそれは容易に合点出来ます。

 基本的には自身で信心の沙汰が出来ると思っていますが、人間の事を「機」と言われるように一筋縄ではいかない、あらゆる事を思考する可能性があるのが私という者。やはり正しい信心と念仏の話を聴聞し、内なる思いを善き師に打ち出すのが良いようです。

 今年は何かと学びが多くお念仏が増えています。ありがたいことです。