念仏者 とんのつぶやき

お慈悲に包まれた日常と、浄土真宗の救いを綴ります^_^

体験や感情と信心 追記

 過去に今回のエントリーについて一度書いた事がありました。 

2025-05-06

南無阿弥陀仏と私 その5(体験や感情と信心)

 見つけました。繰り返し述べるつもりは無かったのですが、前回のエントリーでコメントを頂きましたので、少しだけ追記します。

 感情(嬉しい、楽しい、晴れやか、悲しい、寂しい、苦しい、、、)、それは言葉で表現出来ないほど沢山ありましょう。

 また、お聖教や書籍を読んだり聴聞したりして、様々な心が湧いてくるでしょう。明るくなった。心が晴れた。疑いが晴れた。疑いが無くなった。疑いが消えた。懺悔した。涙が溢れた。真っ暗になった。どん底に堕ちた。光が差した。夢から覚めた。覚醒した。閃光が見えた。声無き声が聞こえた。まだまだ、幾らでもありましょう。

 それらあらゆる感情や心の状態、体験。これらを微塵でもあてにする、頼りにする、拠り所にする、根拠にする、反芻する、注視する、吟味する、見つめる、追いかける、、、。まだまだあるよ(^_^;)。

 そうすることで、

「救われよう、救われたい」→全て自力の心。

「救われた」→全て異安心。

 ここまで述べた事と、自力の信心を悲しみ、他力の信心をよろこぶのとは話の論点が違います。全く別の話です。

 他力の信心を気楽に喜び合えるお同行が側にいる。というかもはや通り越して当たり前になっている、そんな私は幸せ者でしょう。

 これこそよろこぶべき事。

ヨロコビタイ 

 昔ある国の美人応援団にそんな名前がつけられていたかと思います。

 本願が成就しているとよろこぶ。

 本願に疑い無いことをよろこぶ。

 この2つ、かなり違うと思うんですが。分かりますか?。しつこい、、、。

 前者は事実、後者は信心。客観と主観。聴くと聞く。他にも出てきます。

 分かりますよね(^_^;)。しつこい、、、。

 珍しくつぶやき2連ちゃんでした。しつこいなあ、、、これ。もうやめる。

 今後は普通をヨロコビタイ ツブヤキタイ。

話しにならない

 昔、よく「話しにもならん」と言う上司がいました。その度にビクビクしたものです。

 しかし実は「話しにもならん」間違った浄土真宗の話しを、その上司の上司から延々と聞かされていたのでした。つまり組織まるごと文字通り「話しにならん」かったのでした。

 特に「自力の心」について、ただ今救う本願を疑う「自力の心」ではなく、どうしたら助かるの?、といった単なる本願とは何かという「疑問」だったのです。その疑問にすら回答出来ないお粗末な話しばかり。だから「話しにもならん」。

 これでは、ただ今助けるという南無阿弥陀仏を受け入れられる訳が無い。南無阿弥陀仏をただ今助かると受け入れられる訳が無い。当然の理屈でありました。

 我にまかせよ、必ず助ける。ただ今助ける。

 どう聞きますか、分かりますか?。端的にこれしかないですよ、浄土真宗は。

付いたり離れたり

 スタッフが去ることになりました。

 しかしこれは、あくまでも仕事という視点からであって、かたちは離れますが、違うかたちでどこかで繋がっているし繋がっていくのだろうと思います。袖触れ合うも、、、でしょうか。喜んでいいのかな(^_^;)。

 つまらない私でも、歳のせいもあってか今回のことでも、その他のきつい局面や出来事でも、相手を慈しむ思いが不意に湧き上がってきます。

 悲しみや喜び、不安と安堵、驚きと諦め、など様々な思いの交錯と人との関わり、この積み重ねが人生なんだとも思います。

 

 他力の信心を獲た者、救われた者、念仏者としての立場から、何とかなって欲しい、と思う人はたくさんいます。

 今はさすがに無理、また殊勝な気持ちはとても続かないけれど、必ず未来は生命まるごと何とかしてみせる!私の力では無いのだから!。

 こう思えるだけでもありがたく、多少なりとも心が軽くなる思いがするのでした。

節目

 今日の夕のウォーキングは久しぶりに気持ち良かったです。ようやく秋らしさが感じられました。

 家族のサポート、仕事、自身の体調管理、特に3番目は生涯に渡る課題、老病死は避けられません。五蘊盛苦がじわじわと深まってきます。

 しかし救われた生命、御恩に1mmでも報いられれば、また社会に貢献出来るのであれば、少しは生きている甲斐があるのではないかと思います。

理屈じゃないのよ念仏は 独り言

  あれこれ理屈も大事ですが、理屈でないのが念仏です。

 本願力回向の行信、行ずることに駄々を捏ねる意味もなければ、なんの理由付けも要りません。いつでもどこでも、こんなに行じ易い行いは、他にないでしょう。

 そのまま助ける、を、そのまま助かる、と受け容れる。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と受け容れる。称え聞く。

 そうならないから、なにかの理屈で飾り付けをしたくなるのでしょうか。

 おおよそ誓願について、真実の行信あり。

              (教行信証行巻)

 浄土真宗の基礎が無いと、思考が歪んで、どんどん変な信じ方になってくる。

 わずかな学び直しからそう思うようになりました。