他店舗の応援に入るようになり物理的にもメンタル的にも忙しさが増しています。それは想定内でしたが、もう昔のように若くはありません。当たり前か^_^。
上手く力を抜きたいところですが、上手くいかないのが常。
そのような煩いだらけの一日を阿弥陀仏は陰ながら応援・見守ってくださっているのでしょう。大声で励まされては何事も手がつきません。南無阿弥陀仏。
親鸞聖人のお言葉
「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。
(尊号真像銘文)
ある布教使の言葉
親鸞聖人の教えを間違えてお伝えしようものなら切腹物です。私はその覚悟で説いています。
「『若不生者』の『生まれる』は「この世で信楽の身に生まれることです。この世で正定聚に生まれることです。」
〰️頑なだった主張が約7年後には〰️
→機関誌:弥陀の本願の「若不生者」の「生まれる」を、善慧房証空は「死んで極楽に生まれさせる」お約束だと大衆に説き、親鸞聖人との「体失不体失往生の諍論」が起きた。 しかし、聖人もご著書に、この「若不生者」 を「わが浄土にもし生れずは」と記されている。ならばなぜ、諍論は起きたのか。
とんのつぶやき
誤りをどれだけ丁寧に指摘されても、絶対に認めない、謝らない。
一事が万事、その他は推して知るべしでした。
そして、、やがて、、しれっと何も無かったかのように(^_^;)。
まさかの「時間差オチ?」があった事までは知りませんでした。それで回想しました。
普通は、、一般的には、、仕事上、相手に説明する時によく使う言葉です。でもこれって会話において案外大事な価値観というか共通概念の一つではないでしょうか。
「念仏成仏是真宗」とは何か「行信」とはどういう事か 。つまり浄土真宗とは何かという事。
こう書かなければならなかったこと自体が既に普通ではなかったのでしょう。
普通、門徒さんなら共通認識ありますよね。そうでなければ同行と沙汰をして信を味わうことは普通無理でしょう。
2つの語句の意味、一般の方でも説明を聞けば、ああそうか、3分あれば普通分かります。
ましてや突っ込んで勉強してるはずなのにそうならないとすれば、、、。普通考えられません。
何事も言葉の共通認識がないと、会話が成立しませんよね。普通が通用しないのは異常という事。
記しておきます。
「教え・事実」→「解釈」
このような自動変換の例をあげます。
・「念仏となえる者を救う」
・「専修とは唯仏名を称念して自力之心を離る」
→「そんな訳ない」
・「18願のみ」→「直ちに聞けない。自惚れ」
・「善人も悪人もいる」→「皆悪人。自惚れ」
・「平生業成」→「道がある」
・「自力心をふり捨てて」→「自力心に用事なし」
・「本願成就」→「本願成就!」
とんのつぶやき
自己中心的な考え方から少しだけ距離をとり、心を虚しくして聞けば、いずれも本来の意味がおのずと分かってくるのではないでしょうか。いや、そうに違いない。おはたらきに託します。
浄土真宗の信心は、本願力回向の行信でありますから、お軽同行のように「往生は投げた投げた」と後生のことは阿弥陀仏に丸投げできるような身軽で開けた信心でありましょう。
上記の例についても一区切りしたいと思います。この1年余り、凡人がよく続いたものだと思います。
小休止。以降はより気楽に(元に戻るだけ)日常生活や、久しぶりに忙しくなってきたお仕事(^_^;)、時事ネタなどから出て来る味わいやぼやきを、思考の整理やストレス解消も兼ねてつぶやきます。
過去のエントリー
2019-10-14
ブログ「念仏者 とんのつぶやき」の構成
このブログの構成について。
3部構成です。というか書き始めは特に考えてなかったのですが、気が付いたらそのようになってました。
☆2019年☆
1部 9月9日:ブログを始めたきっかけ(思い立つ!)
2部 9月11日~9月25日:浄土真宗の要(とんの全て!)
3部 9月26日~:とんのつぶやき(好き勝手に…)
個人的には2部をこのブログで残せたことが1番の喜びです。
「本願を信じ念仏申さば仏に成る」浄土真宗は極めてシンプルです。
そしてそのようにただ今救われることです。
これ以上何も書き残すことはありません。遺言か…(笑)。
何十年たって読んで頂いても普遍的な内容かと、勝手に自負する次第です。
3部については、私は学者ではないので自由に書きたいと思います。
ただ、前にもブログに書きましたが、浄土真宗には異安心といって、間違った理解や信心が昔から今に至るまで、いろいろとあります。あまりに簡単すぎるから信じにくく、また間違えやすいのかと思います。
そこが気がかりです。
自身の喜びやぼやき、仕事や時事ごとやら何でもからめて適宜つぶやきます。
体験・感情と信心の関係について思うところを述べておきます。
「こんな体験をした。だから信心を獲ている」
これは成立しません。体験と信心とは無関係です。少し掘り下げてみます。
団体トップの青年時代の獲信の体験記が再び注目されています。「次第にその迷雲も晴れ」「総てが包まれていたことに気がつくのだ」。これは鮮やかハッキリな体験をしていない部類でしょう。それに対し谷△氏などは、不思議な体験を具体的に記しています。
他にも「弥陀の呼び声を聞いた」「生きた阿弥陀様に会えた」「阿弥陀仏に抱き摂られた」「お仏壇の本尊が眩くなった」「火に触ったより明らかな感覚」「びっくり仰天」など色々あるようです。
むしろそれは浄土真宗に限らずとも、宗教体験として、さらに広げれば神秘体験、宇宙と一体化したり、強烈な光を見たり、神々しい感覚に打ちのめされたり、絶対的な感覚体験など、またスピリチュアル体験として無限に想起されるでしょう。
ではこういった体験をしていない団体トップは信心が無く、谷△氏は信心が有るのかと言うと、どちらとも言えません。体験と信心の有無に関係性はありません。
また、それは私の感情にも当てはまります。「嬉しさ一杯です」「地獄一定の苦しみを味わった」「喜びが溢れ出ます」「心からの懺悔があった」など色々ありましょうが、「だから信心を獲ている」とは言えません。あらゆる感情と信心の有無とは無関係です。
そしてこれら2つに共通して言えることは、そうした体験や感情を、ほんの僅かでも頼りにする、あてにする、つかむ、すがろうとする思いがあれば、これを自力の心と言い、他力の信心ではありません。
とんのつぶやき
信心と言っても阿弥陀如来の本願力をはからいなく受け入れているだけであって、この他に何もありません。だから体験や感情とは無関係、至って明快なのでした。
ではどこに目を向けるべきでしょうか。
「『教行信証』に説かれた教えは、「廃悪修善」という従来の仏教の考え方をくつがえし、阿弥陀如来の本願力をはからいなく受け入れるか(信)、それとも自力のはからいをもって拒絶するか(疑)によって、迷い続けるかさとりに至るかが決まる、いわゆる「信疑決判」という全く新しい仏教のあり方を示した教えでした。」
(「教行信証からひもとく浄土真宗の教え」はじめに、より一部抜粋)
浄土真宗においては、阿弥陀如来の本願とそのおはたらき(本願力)、そこからの「信疑決判」、ここに着眼すべきであって、不思議体験や感情の劇的な変化にとらわれる意味や必要性は全くないことになりましょう。
今回で南無阿弥陀仏と私について、区切りにしたいと思います。