如来の作願(さがん)をたづぬれば
苦悩の有情(うじょう)をすてずして
回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて
大悲心をば成就(じょうじゅ)せり
(正像末和讃)
大悲心成就を喜ぶだけでは勿体ない。
回向を首、つまり与えるのが目的。
ならば計らいなく、そのまま頂きましょう。まるごとお任せ、全託です。
重ねて言います。遠慮無用です。往生は丸投げですよ〰️!
個人的に最も思い入れのある和讃です。取り巻く環境の変化によって当時とは違う味わいを持つようになりました。
如来の作願(さがん)をたづぬれば
苦悩の有情(うじょう)をすてずして
回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて
大悲心をば成就(じょうじゅ)せり
(正像末和讃)
大悲心成就を喜ぶだけでは勿体ない。
回向を首、つまり与えるのが目的。
ならば計らいなく、そのまま頂きましょう。まるごとお任せ、全託です。
重ねて言います。遠慮無用です。往生は丸投げですよ〰️!
個人的に最も思い入れのある和讃です。取り巻く環境の変化によって当時とは違う味わいを持つようになりました。
真実信心を与えようと用意されたのが南無阿弥陀仏の六字の名号。
では私はどのように?
そのまま受け取る、となります。モノではありませんが。
大事なことは、何の計らいなく。まるごと、そのまま。
南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と計らいなく、そのまま聞き入れているのが信心です。だから信心と言っても南無阿弥陀仏の他に何もないのでした。
その信心がずっと相続して、していくので、ふとした時でも称名念仏となって出てきて下さります。
いつでもどこでも南無阿弥陀仏。
分別世界、相対世界において、これ以上の不思議は無いのではないかと思います。
私が今日、生きている事、それ自体が奇跡である。自分1人では決して生きていけない、多くの人やものに支えられて生かされている。だから日々の人間関係や仕事、病、自然災害、事故、様々な困難にも、立ち向かって生きていこう。未来は案外開けている。
こう思えたら十分に強く生きていけるでしょう。しかし、こう思えなくても平凡に生きてきた私が現にいる。言ってしまえば、このような事を思考することも殆どないのが正直なところ。
人生や命の連鎖に特別な価値を見い出そうとするのはなく、思考を巡らせるのではなく、そこで留まり完結させるのではなく、主語を「私」から、「仏・仏の本願」に反転させるところの先に思考を遥かに超越した真の救いがあるのでした。
阿弥陀仏の本願力にまかせ切った信心の行者が念仏者なのでありました。私には少しの持ち分も必要なく、そもそも何も持ち合わせていないのが私でありました。
極端な例外として浄土真宗系カルトは、「人生の目的」や「なぜ生きる」というフレーズを用いて、親鸞はこれ一つを明らかにされたと主張して信者獲得に躍起になっていますが、全く論外です。
一つ挙げるとすると、世界中の人で一度も浄土真宗の教えに触れることなく生涯を終える人はどれくらいでしょうか。ほとんどと言っても過言ではないでしょう。これら大勢の人は蚊帳の外で、人生の目的を知らされた私は、仏縁の深い恵まれた選ばれし者なのでしょうか。
果たしてこれは仏の視点に通じるのか?
私が生きる目的、私が、私が、という私を固定観念的にみる思考を客観視する事は容易ではないようです。
人間は考える葦である、という言葉があるように、私達が生きる意味を考えるのはごく自然なことだと思います。そして生きる意味について、なぜ生きるのか、どう生きるのか、この2つを分けて考えるのと一括りに捉えて考えるのと、どちらでも良いでしょう。いずれも「生きる意味」という枠に収まるものだからです。生きる意味を問うと言っても、人間の思考という枠組みの範疇です。
ここから前回の続きになりますが、仏に成ることと現代の私達の生きる意味とは相関性があるのでしょうか。
結論から言うと相関性はありません。
感情面からは、相関性があって欲しい、あるはず、いや、あるべきだと思いたいかもしれません。
人が生きる、私が生きる、その意味を問うのは意義あることかもしれませんが、私が、私が、我々が、、、と言う私に一様に固定した価値を与えているのは私であり私の都合であって、普遍的な存在価値を私に見い出すことと、仏の立場からみた人間の有り様や救いの手立て、そうして私が仏に成ることとは次元の異なる話であって交わらないものと思い至っています。
このことは現代人のみならず、いつの時代の人々にも当てはまることだと言えるでしょう。