念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

異安心

ハッキリするという表現について 最終

浄土真宗の他力の信心を語る時に、ハッキリするという表現はあまり好ましくないというか、しっくりこないと感じています。 以前にも書きましたが、救われる瞬間がどうこうより、今救われているかどうかが大事だからです。今の連続が今日であり明日であり生活…

馴染む

善き師に恵まれて、その都度不審を述べてきました。信前は勿論ですが信後の不審こそ放っておかないのが良いと思います。 不審を尋ねることで、聞き誤りや理解不足を知らされると同時に、自身の信心と照らし合わせることになるからです。 それと私の場合、適…

私の心に用事はない 自問自答

【例文】 阿弥陀仏の完成した救いに遇っているから、 南無阿弥陀仏が私の世界に届いているから、 私の心に用事はない。一人も漏れず仏に成れる。 親鸞聖人は教行信証に、 ①『「聞」というは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞という…

愚者になりて

他力の信心は一味平等と言われます。 身内がそうなので何の違和感もなく過ごして来ました。教義理解はまちまちですが、不思議とポイントとなるところはしっくりくるのです。 今年になって浄土真宗の現況を耳にする機会が増えました。 十劫安心、知識帰命、疑…

大違い

「されば南無阿弥陀仏ともうす体は、われらの往生の定まりたる証拠」 「御文章」四帖目八通 そう聞いて疑い無いのが他力の信心です。 ただ聞いて安心するのは十劫安心です。 大違いです。心の内をさらけ出して沙汰するよう述べておられます。 この御文が一番…

領解文(改悔文)

りょうげもん(がいげもん)と読みます。蓮如上人の時代から始まったもので、浄土真宗の正しい領解(信心)を口に出してあらわしたものです。 自身の領解(信心)を告白し、間違いがあれば正してもらう良いご縁となります。領解文は、その人の信心が正しいか間違…

人間って難しい

救われたからといって、浄土真宗の知識や学問は何ら変わりません。本願に対する疑いの心が無くなっただけです(このだけ、が実に有難いことではあります)。 勉強したり経験を積んだりしないと何も身につかないのはどの分野でも同じかと思います。 端的に言…

宿善について

10月7日、「私の前に道はない」のタイトルでも書きました。 ~~ 道があったとすれば、救われて振り返る程度のもの。親鸞聖人の三願転入の文もそうですよ。 南無阿弥陀仏においては道など元より無いですからね。 ~~ ついでに言えば、「宿善」についても…

私の前に道はない その3

薬の順番待ちでのこと。 キッズコーナーで絵本を見ていた子供。順番が来て母親が呼ばれる。まだ遊んでいたいと逃げる我が子を抱っこ 。そして抱いたまま薬を受け取り帰宅の途に。 力強いですね。 いろいろな理由をつけて逃げようとする者であっても、追いか…

私の前に道はない その2

親鸞聖人は教行信証の冒頭(総序)に 「 たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」 と述べておられます。 思いがけず救われたならば、遠く過去からの因縁を喜びなさい、と。 思いがけず救われるのであって、たとえれば、いつの間にかひょいと救いとられたよう…

私の前に道はない

ああして、こうして、こうなったら救われるだろう。 そんな道(ストーリー)はありません。あったほうが分かりやすいかもしれません。ピタッときます。けれどもそれは私の分別です。 道があったとすれば、救われて振り返る程度のものです。親鸞聖人の三願転…

どちらが正解?

どちらが正しいでしょうか? A:南無阿弥陀仏は、この今救ってくださります。そういうはたらきです。 B:南無阿弥陀仏とはいえど、雑毒の善しかできない者であるとはっきり知らせてからでないと救えません。できるという自惚れ心をぶっ壊さないとだめなんで…

こんな異安心あった?(つづき)

地獄や極楽を見ることも知ることもないままで救われるのです。救われて見えるようになるのでもありません。 南無阿弥陀仏のはたらきが疑いなく聞けるようになったのです。

こんな異安心あった?

「本願を信じ念仏申せば仏に成る」 簡単すぎるから間違えやすいのかと思います。 浄土真宗には昔から異安心というものがいろいろあるので気を付けないといけません。 ネット上ではこんなの載ってました。 「地獄一定と極楽一定が同時にはっきり知らされ、相…