聞
本願成就文の「聞」と「信心」の関係について親鸞聖人は、 「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり。 (教行信証信巻) 仏願の生起本末を聞きて「疑心あることなし…
【例文】 阿弥陀仏の完成した救いに遇っているから、 南無阿弥陀仏が私の世界に届いているから、 私の心に用事はない。一人も漏れず仏に成れる。 親鸞聖人は教行信証に、 ①『「聞」というは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞という…
親鸞聖人は、尊号真像銘文に、 聞というは、如来のちかいの御(み)なを信ずともうすなり。 と述べられています。 「聞く」というのは、阿弥陀如来(仏)の誓いによって表れた南無阿弥陀仏(名)を「信じる」ということですよ、と言われています。 「南無阿…
親鸞聖人は、教行信証に、 「聞(もん)」というは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞というなり。 と述べられています。 わたしたちが、仏願の生起本末を聞いて、疑う心のあることが無いのを聞というのである、と言われています。 …
親鸞聖人は、一念多念証文に、 きくと言うは、本願をききて疑う心なきを「聞」と言うなり。 と述べられています。 浄土真宗で、「聞く」ということは、本願を聞いて、「疑う心が無い」ことだと。 続いて、 またきくというは、信心をあらはす御(み)のりなり…