他力の信心
りょうげもん(がいげもん)と読みます。蓮如上人の時代から始まったもので、浄土真宗の正しい領解(信心)を口に出してあらわしたものです。 自身の領解(信心)を告白し、間違いがあれば正してもらう良いご縁となります。領解文は、その人の信心が正しいか間違…
南無阿弥陀仏の救いの対象から外れる人はありません。区別無く働きかけられています。 自身の業に如何に苦しんでいる人であっても、こんな私が救われるはずがない、と卑下する必要はありません。 ただ今救うのお働きに、おまかせしたのが信心です。罪悪が深…
この世で阿弥陀仏の本願の救いは一度きりです。そして救われたならば、捨てられることは二度とありません。たとえ救われたことを忘れてしまっても問題なしです。 要は救われるか否かです。今救うと働きかけている南無阿弥陀仏に、おまかせするのみです。まか…
サラサラと流れるように世の博識を展開する論客、ついつい引き込まれてしまいます。 あくまでも私の主観ですが、そんな人ほど、他力の信心、あて頼りとするような領域には目が向きにくいように感じます。 しかしそのような人でも、平等に、いのちをまるごと…
因果応報。 努力があって相応の結果が得られる。真理ですが、その理屈を南無阿弥陀仏の救いに当てはめるのは間違いです。 南無阿弥陀仏、他力の信心は、何の計らいもなく聞き入れる信心です。 例えば、用意されたお宝を、心からどうぞ受け取って下さい、と差…
今になってこうしておけば良かった、ああしておけば良かったと思うことが度々あります。未来が分かる超能力があるのならばともかく、その時は目一杯考えて行動している訳ですから仕方がありません。まずは目の前の現実を受け止めることだと思います。 しかし…
悪人正機について、「要は自分は悪人であると自覚しろってことだな」という言い回しを読みました。 違和感があります。 自分は悪人であると自覚したこと、それ自体は救いと関係ありません。また、悪人だと深く省みることも救いと関係ありません。 救いとは他…