善き師に恵まれて、その都度不審を述べてきました。信前は勿論ですが信後の不審こそ放っておかないのが良いと思います。
不審を尋ねることで、聞き誤りや理解不足を知らされると同時に、自身の信心と照らし合わせることになるからです。
それと私の場合、適切な表現かは別として信心が馴染むのにそれなりの時間を要したからです。
逆に、信心を獲た世界が予想通りであったり、崇める師から「あなたは妙好人です」と認定されたものであれば、その信心は危ういでしょう。特に後者はクレバスに落ちるようなもの。師弟関係から不審を無意識に心の奥底にしまい込むでしょう。そこから脱するのは至難の業、そんな師は悪知識です。
いずれにしても、不審をそのまま述べることが喜びの種になり、教義理解も深まり、不審も晴れて良いこと尽くめです。
そしていつの今も南無阿弥陀仏。