他力の信心は一味平等と言われます。
身内がそうなので何の違和感もなく過ごして来ました。教義理解はまちまちですが、不思議とポイントとなるところはしっくりくるのです。
今年になって浄土真宗の現況を耳にする機会が増えました。
十劫安心、知識帰命、疑心往生、一念覚知などなど、蔓延してます。というより、元より浄土真宗の歴史は異安心と隣り合わせ、いや、内在している、というのが本当なのかも知れません。
さらに危惧するのは、説く側の野心と変容、聞く側の忖度、繋がりを求め合う関係性。言うなれば我欲が絡んでいるように映る事です。
果たして信後であっても、しっくりこないのは異安心だからか、我欲が生み出すものなのか。
そんな事より、なんの取り柄もない念仏者、これに何の不足がありましょうか?