念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

塞翁が馬

 今になってこうしておけば良かった、ああしておけば良かったと思うことが度々あります。未来が分かる超能力があるのならばともかく、その時は目一杯考えて行動している訳ですから仕方がありません。まずは目の前の現実を受け止めることだと思います。

 しかし、そういったことも時間が経てば、ほろ苦い経験として実になることもあるものです。

 他力の信心を頂いたならば、浄土往生して、先を見通せる智慧を賜ります。本当に有難いことだと思います。

忘れがち

 救われているということが当たり前になっています。日々のせわしさにバタバタしていると、有難いことを有難いことだと思わず、忘れ去られています。

 しかし、どんな瞬間でも常に信心を護って下さっているのが南無阿弥陀仏です。

 拝まないときも 拝んで下さっている 阿弥陀さま(今月のカレンダーのことば)

 こうでもして下さらないと、到底私は救われなかったのだと思います。

大雪

 大雪のため通勤で使っている幹線道路のほとんどの区間で通行止めとなりました。初めてのことです。

 前日の帰りから今日の往復、至るところで車がストップ、やむなく置き去りとなった車も10台以上目にしました。

 幾度も方向転換。道路情報を聞いたり伝えたり、スリップした車を押したりして切り抜けられました。

 いろいろあるものです。無事に帰宅できたことに感謝です。 

後生の準備

 後生の準備と言っても、私の方で用意するものは一つもありません。例えばすでに大きな船に乗っていて、その船はいつ私の寿命が尽きても浄土に行き着くようになっているようなものです。

 後生を考えようが考えまいが、考えることが出来なくなったとしても、それは全く問題にならず関係もなく支障になりません。

 そういう船にすでに乗せられているとすれば、何とも身軽で楽なことでしょう。しんどいことがあっても乗り越えていこうかな、と思えてくるものです。

自問自答

 今年に入ってからもすでに、あの人が亡くなっていたのか、と知って驚くことがありました。年が明けても何ら変わらない現実を知らされます。何気ない当時の会話が最後だったのかと複雑な気持ちになります。

 浄土真宗においては、阿弥陀仏の本願の救いに遇っているのか遇っていないのか、他力の信心を獲ているのか獲ていないのか、極めて大事なところです。

 南無阿弥陀仏を疑いなく聞いているのは、何とも有難いことです。

 一寸先は闇と言われますが、一寸先よりも確実に有るのは後生です。後生の準備はいいですか?

 はい。

新春の慶び

 昨年もいろいろなことがありましたが、新年を迎えるたびに、シンプルに思うことがあります。

 確実に一つ年をとった、と。

 しかしながら、他力の信心を頂いている立場からは、確実に浄土往生に近付いたことになります。

 真に慶ばしき事、であります。

 ただし、これまで同様に、生きていく上では自身にいろいろな事態が起きて当然であり、その中をどう乗り越えていくのか、勉強だと思います。

 南無阿弥陀仏、忘れがちな南無阿弥陀仏を称えて讃嘆できるような一日を重ねたいと思います。

嫌なこと

 嫌なことがおきても決してそれは他人のせいではないですよ、というのが因果応報・自因自果ということでしょう。ただし、嫌なことと思っていたことが、時間が経つといい経験だったと反転することもあります。ややこしや、です。

 それでもどうにも腑に落ちない時は、申し訳ないですが仏様にぶつけておくのがよいかと思ったりします。

 念仏となえるご縁になる・・・、都合良すぎるかもしれませんが。