念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

貴重な日々

 救われて14年ほど経ちますが、聞けるタイミングというのがあったように思います。

 後生助かりたいという気持ちが無いことには始まりませんが、これまでの聞き誤りを正されて認め、ただ今助けるという本願に真向かいしました。

 大袈裟かもしれませんが、そのタイミングを逃していたらと思うとゾッとします。逆に言えば、非常に貴重な日々でありました。

 この時とばかりに救いの力が働いて下さったのだと、感謝して、念仏称えるばかりです。

主人公

 魅力的な小説や映画に出会うと、いつの間にか主人公に入り込んで、ドキドキワクワクすることがあります。

 阿弥陀仏の本願の相手は、十方衆生と言われますが、私のことです。そうならば、何故本願を立てられたのか、私に対してどんな誓いをしておられるのか、気になってくるものです。

 他の誰でもない、この私の後生の一大事を助けようと働いている本願と、私とが真向かいすることになりましょう。

 そして必ずや、一味平等の救いの世界が開かれてきます。

領解文(改悔文)

 りょうげもん(がいげもん)と読みます。蓮如上人の時代から始まったもので、浄土真宗の正しい領解(信心)を口に出してあらわしたものです。

 自身の領解(信心)を告白し、間違いがあれば正してもらう良いご縁となります。領解文は、その人の信心が正しいか間違いかをを判断する物差しと言えるでしょう。

 私はお寺の門徒ではありませんが、「新しい領解文」を読む機会がありました。

 他力の信心と浄土真宗の学問の深さとは別のものです。つまり、学問を極めることによって信心が頂ける訳でもなければ、逆に、信心頂いているからといって、真宗学が勝手に身に付いて教義解釈に間違いが無くなる訳でもありません。

 それを踏まえた上で言わせてもらいます。「新しい領解文」の作成者方(どなたか分かりませんが)は他力の信心を頂いていないでしょう。そう言いたくなる位に、従来の領解文とは意味が異なる文章にすり替わっています。

 幸いにも、この信心告白に対して色々なところから批判が起きているようですから、真摯に受け止め、本来の趣旨に則って、先ずは文章そのものを悔い改めてもらいたいです。

真の平等

 南無阿弥陀仏の救いの対象から外れる人はありません。区別無く働きかけられています。

 自身の業に如何に苦しんでいる人であっても、こんな私が救われるはずがない、と卑下する必要はありません。

 ただ今救うのお働きに、おまかせしたのが信心です。罪悪が深くて重い私が、救いのお目当てなのでした。

一度きり

 この世で阿弥陀仏の本願の救いは一度きりです。そして救われたならば、捨てられることは二度とありません。たとえ救われたことを忘れてしまっても問題なしです。

 要は救われるか否かです。今救うと働きかけている南無阿弥陀仏に、おまかせするのみです。まかせ切ったのが信心です。

 これも全て南無阿弥陀仏のお働きですから、他力の信心と言われます。