念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

何も求められていない

 阿弥陀仏の本願に救われるのは、私が何かを足したり補ったりしした結果ではありません。そもそも始めから何も求められていません。まったく手出し無用です。そういう本願だからです。だから今救われるということがあります。時間はかかりません。ただ今救うという本願を疑いなく聞くだけです。

 阿弥陀仏の本願に救われてからも、何も求められていません。まったく自由です。こんなに楽なままで本当にいいのかなと思うこともあります。(それでブログを始めた感もあります)。そして行く先は浄土と決まっています。これもそういう本願だからです。

 いろいろ勉強して仕事に励んで、人や社会の役に立とうと時には苦労もしながら、そのなかに生き甲斐を感じながら生きていくような、この世の持ちつ持たれつの関係性とはかけ離れています。

 とことん持たれつ持たれつ、というべきか…。

親鸞聖人は阿弥陀仏の本願のことを、「超世の悲願」とも言われています。

私の前に道はない その3

 薬の順番待ちでのこと。

 キッズコーナーで絵本を見ていた子供。順番が来て母親が呼ばれる。まだ遊んでいたいと逃げる我が子を抱っこ 。そして抱いたまま薬を受け取り帰宅の途に。

 力強いですね。

 いろいろな理由をつけて逃げようとする者であっても、追いかけて救わんとはたらいているのが南無阿弥陀仏です。

私の前に道はない その2

 親鸞聖人は教行信証の冒頭(総序)に

 「 たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」

と述べておられます。

 思いがけず救われたならば、遠く過去からの因縁を喜びなさい、と。

 思いがけず救われるのであって、たとえれば、いつの間にかひょいと救いとられたようなものです。道なんか無かったです。

 では、なぜ救われたのかと考えてみると、救われたから救われた…。まったく他力、南無阿弥陀仏のはたらきでしょう。

 遠い過去のことなんか分かりませんが、親鸞聖人の言われるように、因縁を喜ぶ他はありません。なむあみだぶつ。

私の前に道はない

 ああして、こうして、こうなったら救われるだろう。

 そんな道(ストーリー)はありません。あったほうが分かりやすいかもしれません。ピタッときます。けれどもそれは私の分別です。

 道があったとすれば、救われて振り返る程度のものです。親鸞聖人の三願転入の文もそうです。

 南無阿弥陀仏においては、道など元よりありません。

すべてお任せください

 windows のアップデート作業が、思ったより時間がかかっていました。

 途中経過の表示がその都度画面に出ていました。

 案じていたら、「すべてお任せください」の表示が。

 思わずニヤリ。人に言われるより信頼できるかもしれません。

 仏さまの言葉には一つの嘘もありません。

完成引き渡し

 家があっても眺めているだけでは喜べません。入ってなんぼです。

 目の前に立派な家があるんです。

 まず入りましょう。構造や性能などは関心があれば調べればいいことです。それは後からどれだけでもできます。

 ずっと前から完成引き渡しの状態です。入らないと意味ないです。

自力探し

 煩悩具足の凡夫である私が、ただ今救うという本願に向いた時に出てくるのが自力の心(疑心・疑情)です。

 疑心(自力の心)あること無し、となったのが他力の信心です。煩悩は全く変わりません。

 ただ今救うという本願、南無阿弥陀仏に向いてますか。自分に向くのではありません。自分の中をどれだけ探しても自力の心は見つかりませんよ。意味のないことです。

 昔の私がそうでした。