念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

何も求められていない

 阿弥陀仏の本願に救われるのは、私が何かを足したり補ったりしした結果ではありません。そもそも始めから何も求められていません。まったく手出し無用です。そういう本願だからです。だから今救われるということがあります。時間はかかりません。ただ今救うという本願を疑いなく聞くだけです。

 阿弥陀仏の本願に救われてからも、何も求められていません。まったく自由です。こんなに楽なままで本当にいいのかなと思うこともあります。(それでブログを始めた感もあります)。そして行く先は浄土と決まっています。これもそういう本願だからです。

 いろいろ勉強して仕事に励んで、人や社会の役に立とうと時には苦労もしながら、そのなかに生き甲斐を感じながら生きていくような、この世の持ちつ持たれつの関係性とはかけ離れています。

 とことん持たれつ持たれつ、というべきか…。

親鸞聖人は阿弥陀仏の本願のことを、「超世の悲願」とも言われています。