将棋は一対一の勝負です。基本的には相手がいないと成立しません。
将棋でたとえれば、阿弥陀仏はすでに対局室に入り席についておられます。
まず席につくことです。他の誰かではなく私がです。
そして気が付いたら生きているというような私を、ずっと前から助けようとしている、その所以を聞くことです。
10月7日、「私の前に道はない」のタイトルでも書きました。
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道があったとすれば、救われて振り返る程度のもの。親鸞聖人の三願転入の文もそうですよ。
南無阿弥陀仏においては道など元より無いですからね。
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ついでに言えば、「宿善」についても同じです。振り返るものです。
異説があったので、まじめに一度だけ書いておきます。
「宿善」を、あたかも「救われるための私の善行」であるかのように、におわせながら話をする人がいます。
「宿善を厚くするように」 え?! 言い換えれば、
「私の前に道がある」ええ?!?(数増)まさに未来形…。
親鸞聖人の著作には「宿善」という言葉自体が無かったかと思います。宿縁という言葉を使われています。
遇、行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。
遇、信心を獲ば遠く宿縁を慶べ。
どちらも、 思いがけず救われたならば、遠く過去からの因縁を慶びなさい、という意味です。
当然ながら、蓮如上人が「宿善」と言われているのも、救われて過去を振り返ってよろこぶものばかりで、いずれも「他力の信心」「他力のお育て」「阿弥陀仏とのご縁」という意味です。
にべもなく言います。
救われて念仏申す者ですが、私は何もしてません。
これで論破です。敢えて体験で申します。
宿善、字面通りにいかないんです。やはり下心があるのでしょう。
救われるのに足しになるように思わせて、私に何かを求めるような話、端的に言うと物やお金を要求してくるのは、異安心どころか浄土真宗ではありません。
このブログの構成について。
3部構成です。というか書き始めは特に考えてなかったのですが、気が付いたらそのようになってました。
☆2019年☆
1部 9月9日:ブログを始めたきっかけ(思い立つ!)
2部 9月11日~9月25日:浄土真宗の要(とんの全て!)
3部 9月26日~:とんのつぶやき(好き勝手に…)
個人的には2部をこのブログで残せたことが1番の喜びです。
「本願を信じ念仏申さば仏に成る」浄土真宗は極めてシンプルです。
そしてそのようにただ今救われることです。
これ以上何も書き残すことはありません。遺言か…(笑)。
何十年たって読んで頂いても普遍的な内容かと、勝手に自負する次第です。
3部については、私は学者ではないので自由に書きたいと思います。
ただ、前にもブログに書きましたが、浄土真宗には異安心といって、間違った理解や信心が昔から今に至るまで、いろいろとあります。あまりに簡単すぎるから信じにくく、また間違えやすいのかと思います。
そこが気がかりです。
自身の喜びやぼやき、仕事や時事ごとやら何でもからめて適宜つぶやきます。
阿弥陀仏の願いは、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を生まれて死んでを際限なく繰り返して(輪廻して)いる全ての人を、出て離れさせ、浄土というさとりの世界に生まれて仏に成らせるというものです。
本当にそんな者が私で、本当に浄土往生や成仏ということがあるのかと思ったものでした。では聞いてみようかと。
どういう縁で聞き始めるようになるのかは人それぞれだと思いますが、俗に言えば、とんでもないチャンスです。どういう縁で命(人生)が終わるのかも人それぞれで分からないからです。
私の願いは、かなえるものです。願いに応じた努力や時間を要します。
阿弥陀仏の願いは、すでに南無阿弥陀仏となって完成し、この今救う、と現にはたらきかけられているものです。疑いなく受けいれるだけです。急ぎましょう。