念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

2つのブログをリンクさせてもらいました

 先日、了解を得て2つのブログをリンクさせてもらいました。

「手品師」

「お慈悲のままに」

 いずれも同行のブログです。

 浄土真宗で同行とは、同じく浄土に向かって行く人々、という意味です。

 全く他力(阿弥陀仏の本願力)による救いであるから、御同行と御の字をつけて言われることもあります。

 よろしくお願いします!

人生に意味があるのか

 今日の朝刊で、今回のタイトルついて、別の角度からある人の言葉がとりあげられていました。

 私も好き勝手に、真正面から書いてみます。

 「人生に意味があるのか」

 「南無阿弥陀仏のはたらきに救われてこそ意味が出てくる」

 まず救われること。

 私が救いを求めるずっと先に、私を必ず救って浄土に生まれさせるという南無阿弥陀仏が完成しています。そして、すでに救わんとはたらきかけられています。踏み込んで言えば、すでに救いが届いているということです。いつでもどこでも誰にでも届いているのが南無阿弥陀仏です。そのことに、

 疑い無い(疑わない、のではない)

 受けいれる

 気付かせてもらう

 はからいがない

 いろいろな表現がありますが、そのようになったことが救いであり、他力の信心をいただいたということです。

 そしてそのように疑いを除き、受けいれさせ、気付かせ、はからいを無くするのも南無阿弥陀仏のはたらきです。

 そうなると、往生浄土の身となり、死への根源的な不安の壁を乗り越えることができます。往生とは、生きづまることではなく、まさに浄土(さとりの世界)に往って仏に生まれる身になることをいいます。

 このことに論証や実証は必要ありません。今ここで救われている私という存在そのものが答えであるからです。

 私たちの思想や思考という領域とは明らかに一線を画します。

 飛躍した話になりましたが、生きている人にとって究極の問題であるとも言える死の問題を、理屈抜きで超えていく救いが南無阿弥陀仏であるということです。

どんでん返し、その後

 ぼやきの続きです。

 どんでん返しになるところが、穏便に収まった。というかうまく収めたといったところか。

 取引先や上司、同僚の配慮もあったのでうぬぼれてはいけない。もとより共同作業であるし、引き続き作業は続いていく。

 今後もある程度の変動は想定しておかないと。

 諸行無常

どんでん返し

 以下、ぼやきです。

 ようやく決まった話の、半分まるごとふりだしに戻るかも(-_-;)

 またやり直せばいいのですが、つぎ込んだエネルギーが(-_-;)

 こちらにほぼ非が無い、と言える内容なので(-_-;)

 でもノウハウはつかんだから、案外すぐにやり直せるかも…。

 半分は大丈夫なのだから…。

 ぼやきすぎ!

 諸行無常で、ものごとも自分の心もめまぐるしく変わるもんだなと思います。ものごとが大きく変わることもあります。タイトルのどんでん返し、もその一つかと思います。面喰います。

 ものごとも変わり、それをあて頼りにしている我が心も変わり続けとなれば、なかなか本当の安らぎというのは得難いものかと思われます。

 そういうふうに、「諸行無常」と聞くと悲観的なイメージがありますが、悪いことも続かないということも同様に言えるのです。しんどい状況でもそのうち変わっていくという捉え方も大事かなと思う次第です…。

 ただし、この世のことでも科学的な法則とか定理というのは諸行には含まれず、一般には変わらないものです。

 南無阿弥陀仏はもっとも勝れた法と言えるでしょう。南無阿弥陀仏のはたらきに一度まかせてしまえば常に救われています。

 そしてこの身このままで救われていくのです。なむあみだぶつ。

浄土に向かって行進

 生きるとは死に向かっての行進である、と聞いたことがありますが、あまりいい気がしません。

 死を嫌うのは全ての生き物の本能と言えるのかもしれません。どんなイメージか列挙してみます。

・考えてもあまり意味がない

・考えても暗くなるだけ

・こわい

・嫌なこと

・考えてどうにかなることではない

・死んで戻ってきた人は一人もいない

・わからないものはわからない

・それよりも(だからこそ)今生きることが大事

・限られた命と知り、精一杯生きる

・話題にすることではない

・宗教的な問題

・自分でコントロールできないこと

・死というのは概念であって、無い

・考えないようにしている

・死ぬまで生きる

・仕方のないこと

・それが生物(人間)というもの

・無関心

・死後は無い

 他にもいろいろあると思います。

 それに対して他力の信心を獲た人は、死ぬとは言わず、往生する、と言います。浄土に向かって生き、浄土に往生する身に転じた姿です。

 死にたくないのは煩悩ですから誰でも同じですが、浄土が開けてくる歩みこそ、真に生きる意義が見い出されてくるのだと思われます。

いつでもどこでもOK

 生き方、自己啓発、思考についての本でいろいろ学ぶことがありますが、著者が勧めてはいても、これが正解と言い切れる書き方はほとんどしてありません。学説や統計は説得力はあると思いますが。

 つまるところ、一人一人がよりベターと思える選択をしながら生きていくしかないのだと思い至ります。

 死生観についても同様かと思います。

 そういった中で南無阿弥陀仏のはたらきに生かされていることはとても有難いことだと思います。

 いつでもどこでも、なむあみだぶつ。一息つけることに感謝です。

歳とるだけでは意味がない

 昔はああだった、こうだったとばかり言っていては、最近勤め始めた若者にそっぽを向かれるだけです。

 その昔話の内容に含蓄があればまだいいのですが、それも無いとなると厳しいものです。

 過去は過ぎ去ったもの。今が大事です。割り切りましょう。老害に注意。私もそうならないように注意。

 (仕事のつぶやきです。いやこれは愚痴かも。それなら毎日でも書けるのですが…(笑))。