念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

終活と遺言

 就活ならぬ終活という言葉がすでに定着した感があります。自分が死んだ後に自分のことで迷惑をかけたくない、残された人に幸せになってもらいたい、いろいろな思いがあってのことだと思います。

 私も今死ぬとなると残される家族のことを真っ先に考えます。大事な書類の保管場所や重要なパスワードの管理はざっくりですが済ませてあります。不要な私物はどんどん処分しています。

 間違いなく終活も大事ですが、浄土真宗に縁があったならば、肝心の我が身の後生は本当に大丈夫かどうか、自分の心の内を是非とも正直にみて頂きたいと思います。

 今死んでも大丈夫ですか?後生は一人一人のしのぎ、こればかりは代わりが利きません。

 私の後生は阿弥陀様にまかせてあるので何の心配もありません。そういう意味では私自身の終活と言ってもいいかもしれませんが、それはすでに済んでいます。

 南無阿弥陀仏のはたらきをよく聞いて疑いない身になってください。これが私の終活の言葉です。

摂取不捨(せっしゅふしゃ)

 どんなサービスでもまかせることは基本的に楽ですが相応の対価を求められます。それでも稀にトラブルや事故があったりします。

 そのための契約、覚書、保険、保証、…いろいろな手続きをしたり要求されたりします。やはりお互い心配があるからですよね。

 当然と言えば当然のことですが、生きること自体なかなか大変なことなんだと思います。昔は無かったであろう面倒なこともあるんだと思います。

 他力の信心(阿弥陀仏よりいただく信心)は全くの心配いらずです。私がどんな目に遭おうが信心が崩れるということが無いからです。先の言葉でいえばトラブルや事故が絶対に無いということです。

 「摂取不捨」と言って、1度救われた(摂取)ならば決して捨てられることのない(不捨)のが南無阿弥陀仏です。そしてそのはたらきに疑い無い(まかせ切った)のが他力の信心です。行き先は浄土と決まります。

 次の瞬間何が起きるか分からないような、人生そのものは全くかわらないのですが、他力の信心が1本筋を通したように貫いているのです。

 こんな不思議な力強い救いは他にはありません。 

人間って難しい

 救われたからといって、浄土真宗の知識や学問は何ら変わりません。本願に対する疑いの心が無くなっただけです(このだけ、が実に有難いことではあります)。

 勉強したり経験を積んだりしないと何も身につかないのはどの分野でも同じかと思います。

 端的に言えば救われている人であっても、浄土真宗の教義について解釈の間違いがあれば、それはそのままということです。間違いを自ら気付くか、他人から気付かせてもらうことです。

 特に浄土真宗では、解釈の間違いを指摘されたならば謙虚に受け入れる姿勢が大切かと思います。救われたと言っても全くもって南無阿弥陀仏のはたらきであるからです。

 しかしながら、振り返るところの味わいは人それぞれです。そこに正しいとか間違いとかはありません。それはその人の思いです。他の人にも当てはまる、そういうものではないということです。

 とは言っても我が強いのが人間というもの。異安心が出てくる要素はいくらでもあるのです。

自分の間違い、人の間違い

 大概のことは、自分に非があった、間違いがあったと気付いたら素直に認めてしまうのが楽かと思いますし、事が良い方向にすすみやすいと感じます。

 逆に、相手の間違いを指摘するのも気を使います。言う前に気付いてくれないかな、と思ったりもします。そして間違いを素直に認めることのできる人は徳があると思いますし、実際得をしているのではないかと思います。

 持ちつ持たれつの間違いだらけの世の中、認め合い、助け合いながら生きていきたいものです。なむあみだぶつ。

遠慮は不要

 頂きものは当然うれしいですが、遠慮もあったりします。どういったことで持ってこられたのだろうか、お返しは要るだろうか、次にお会いした時にはどう礼を言おうか、などなど。

 仕事上であればなおさらです。上司に報告して相談することもあります。どうしても考えてしまいます。

 浄土真宗の救いは他力(阿弥陀仏の本願力)の救いです。私に何の見返りも要求していません。

南無阿弥陀仏となって、今助けると現にはたらいているということは、今の私のまま助かるということです。何かする暇もないのが今ということです。助かるのみです。

 名号を与えると言い換えるならば受けとるのみです。

 ためらわずに遠慮なく受けとりましょう。そしてお礼の念仏を称えましょう。

一対一の本願(将棋編)その3

 普通プロの対局では最後の1手まで進むことはなく、 この先の詰み(負け)が分かると投了します。

「負けました」

 将棋でたとえれば、よくよく盤面を見てみるとすでに詰んでいることに気付いたようなものです。

 「負けてました」

 蓮如上人は、

 「思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることはなし」

(御一代記聞書)

と述べておられます。

 阿弥陀如来の五劫思惟の本願は、思案の頂上であると。思案の頂上、すごくインパクトのある表現だと思います。

 親鸞聖人は、阿弥陀如来の本願のとおり救われた人について、

 「仏言広大勝解者 是人名分陀利華」(正信偈

と述べておられます。

 仏はこの人をすぐれた智慧を得たものであるとたたえ、汚れのない白い蓮の華のような人とおほめになる、と。

 将棋にたとえると私は負かされる側ですが、何ともうれしい負けではないでしょうか。 

 以上将棋編でした。

一対一の本願(将棋編)その2

 対局の前に振り駒をして先手か後手かを決めます。歩を3枚か5枚、盤上に投げて表(歩兵)が多いほうが先手となります。

 将棋でたとえれば、阿弥陀仏は必ず先手番となります。誰と対局しても振り駒の結果はそうなります。

 毎週日曜日のNHK杯風で言えば、

 「振り駒の結果、先手は阿弥陀仏となりました。それではお願いします」

 私が生まれるずっと前から、私がどのような者かを見通され、先手をうって建てられたのが阿弥陀仏の本願です。