体力的なことや外見上で年をとったな、と感じることがあります。自覚していないところの衰えをゆるく指摘されることもあります。
まだまだできる、まあ仕方ないか、思いはいろいろです…。
そんな思いとは関係なく、一度救われたならば我が身に何が起ころうとも信心が崩れることはありません。どんな最後であっても浄土往生です。バッドエンドでも良し、グッドエンドでも良しです。
ただ今救わんと働いている南無阿弥陀仏に、そのままお任せするべきです。
今年も残すところ2日となりました。
南無阿弥陀仏のはたらきに疑いなく、今生きているということ自体ありがたいことです。
今年もいろいろなことがありましたがざっくり振り返ってみると、9月からブログを始めたことがよかったです。お盆の時に、何となく書いてみようかと思ったのです。あらためて浄土真宗の要点を自分なりに残しておきたいと思ったのでした。
その意味ではもう十分に満足しています。
ただ今救うという南無阿弥陀仏のはたらきを疑いなく受けいれたならば、必ず浄土に生まれ仏のさとりを開く身となります。
それだけにとどまらず、仏に成って(成仏して)、今度は人々を救うはたらきをすることです(還相回向といいます)。これも南無阿弥陀仏のはたらきによってできることです。
人生100年時代と言われますが、過ぎ去った過去はあっという間ですでに終わったこと。この今から、確実な後生もあっという間でしょう。死んでから先が本当に長いのです。仏さまの目から見れば、悠久の大河の流れの水面にポッと泡ができて消えていくような間が人生である、と聞いたこともあります。
後生、仏に生まれられるかどうか、これが平生(生きている今)に決するのが浄土真宗の教えです。平生業成と言います。
お釈迦様はたくさんのことを教えられました。禅の教えであったり密教であったり、さらにもっとくだけたかたちで私たちの生活の中に、いろいろなかたちで今も残されています。その中でも阿弥陀仏の本願を説くことがお釈迦様の真の目的であった、とするのが浄土真宗です。
そしてその本願の通りに現在ただ今救われている、この南無阿弥陀仏のはたらきに疑いないのが信心です。信心の土台が南無阿弥陀仏なので、本当のところは何の理屈も要りません。
その理屈を私なりに書いたつもりです。
私はほとんどお寺参りをしたことはありませんが、現在の浄土真宗で1つ思うところは、単刀直入に、「あなたは信心いただいていますか」、と一人一人にもう少し踏み込んでよいのではないかということです。後生は一人一人のしのぎ、一人一人が責任を持って答えを出すべき問題だからです。そこは遠慮なしにいきたいものです。
特に私とご縁のある身近な方から。救われましょう。
そして少しでも南無阿弥陀仏の御教えが広まり、平和な世の中であってほしいと願います。
文脈がばたばたしてしまいましたが、思いのままに。今年最後のエントリーとします。
よくあるパターン。
「中止することはない。全く考えていない」
それがしばらくすると、
→現時点で考えていない。
→再考。
→中止。
やはりこうなった。
ある時点から中止を決めていたのでしょう。いきなり中止の発表では批判がきついからでしょうが、もう少しストレートに言って欲しいものです。
しかし、自分が発表する立場であれば内容によっては根回しするかもしれません。
阿弥陀仏の本願の救いにかけひきは不要です。
ただ今助ける、そのまま助ける、すぐにまかせなさい。
ですので、ただ今助かる、そのまま助かる、直ちににまかせる。
何の準備も時間も要りません。
かけひきは不要です。ただちに救われてください。
今日の朝刊で、今回のタイトルついて、別の角度からある人の言葉がとりあげられていました。
私も好き勝手に、真正面から書いてみます。
「人生に意味があるのか」
「南無阿弥陀仏のはたらきに救われてこそ意味が出てくる」
まず救われること。
私が救いを求めるずっと先に、私を必ず救って浄土に生まれさせるという南無阿弥陀仏が完成しています。そして、すでに救わんとはたらきかけられています。踏み込んで言えば、すでに救いが届いているということです。いつでもどこでも誰にでも届いているのが南無阿弥陀仏です。そのことに、
疑い無い(疑わない、のではない)
受けいれる
気付かせてもらう
はからいがない
いろいろな表現がありますが、そのようになったことが救いであり、他力の信心をいただいたということです。
そしてそのように疑いを除き、受けいれさせ、気付かせ、はからいを無くするのも南無阿弥陀仏のはたらきです。
そうなると、往生浄土の身となり、死への根源的な不安の壁を乗り越えることができます。往生とは、生きづまることではなく、まさに浄土(さとりの世界)に往って仏に生まれる身になることをいいます。
このことに論証や実証は必要ありません。今ここで救われている私という存在そのものが答えであるからです。
私たちの思想や思考という領域とは明らかに一線を画します。
飛躍した話になりましたが、生きている人にとって究極の問題であるとも言える死の問題を、理屈抜きで超えていく救いが南無阿弥陀仏であるということです。