念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

自分の間違い、人の間違い

 大概のことは、自分に非があった、間違いがあったと気付いたら素直に認めてしまうのが楽かと思いますし、事が良い方向にすすみやすいと感じます。

 逆に、相手の間違いを指摘するのも気を使います。言う前に気付いてくれないかな、と思ったりもします。そして間違いを素直に認めることのできる人は徳があると思いますし、実際得をしているのではないかと思います。

 持ちつ持たれつの間違いだらけの世の中、認め合い、助け合いながら生きていきたいものです。なむあみだぶつ。

遠慮は不要

 頂きものは当然うれしいですが、遠慮もあったりします。どういったことで持ってこられたのだろうか、お返しは要るだろうか、次にお会いした時にはどう礼を言おうか、などなど。

 仕事上であればなおさらです。上司に報告して相談することもあります。どうしても考えてしまいます。

 浄土真宗の救いは他力(阿弥陀仏の本願力)の救いです。私に何の見返りも要求していません。

南無阿弥陀仏となって、今助けると現にはたらいているということは、今の私のまま助かるということです。何かする暇もないのが今ということです。助かるのみです。

 名号を与えると言い換えるならば受けとるのみです。

 ためらわずに遠慮なく受けとりましょう。そしてお礼の念仏を称えましょう。

一対一の本願(将棋編)その3

 普通プロの対局では最後の1手まで進むことはなく、 この先の詰み(負け)が分かると投了します。

「負けました」

 将棋でたとえれば、よくよく盤面を見てみるとすでに詰んでいることに気付いたようなものです。

 「負けてました」

 蓮如上人は、

 「思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることはなし」

(御一代記聞書)

と述べておられます。

 阿弥陀如来の五劫思惟の本願は、思案の頂上であると。思案の頂上、すごくインパクトのある表現だと思います。

 親鸞聖人は、阿弥陀如来の本願のとおり救われた人について、

 「仏言広大勝解者 是人名分陀利華」(正信偈

と述べておられます。

 仏はこの人をすぐれた智慧を得たものであるとたたえ、汚れのない白い蓮の華のような人とおほめになる、と。

 将棋にたとえると私は負かされる側ですが、何ともうれしい負けではないでしょうか。 

 以上将棋編でした。

一対一の本願(将棋編)その2

 対局の前に振り駒をして先手か後手かを決めます。歩を3枚か5枚、盤上に投げて表(歩兵)が多いほうが先手となります。

 将棋でたとえれば、阿弥陀仏は必ず先手番となります。誰と対局しても振り駒の結果はそうなります。

 毎週日曜日のNHK杯風で言えば、

 「振り駒の結果、先手は阿弥陀仏となりました。それではお願いします」

 私が生まれるずっと前から、私がどのような者かを見通され、先手をうって建てられたのが阿弥陀仏の本願です。

一対一の本願(将棋編)

 将棋は一対一の勝負です。基本的には相手がいないと成立しません。

 将棋でたとえれば、阿弥陀仏はすでに対局室に入り席についておられます。

 まず席につくことです。他の誰かではなく私がです。

 そして気が付いたら生きているというような私を、ずっと前から助けようとしている、その所以を聞くことです。

 親鸞聖人も、「ひとえに親鸞一人がためなりけり」、と本願を振り返っておられます。

現場に来ておられます

 「何も知らずにそんなこと言って。現場を見てから言ってくださいよ、わかってないでしょ!」

と最前線で働く社員が本部に対して言うとすれば、現場と本部に溝というか距離感があるというか、まあそれはうまくいっていない会社でしょう(私が言ったりします…。たまにですが…)。

 阿弥陀仏がただ今救うと願われているということは、阿弥陀仏が私の目の前に来ておられるということです。距離はありません。そうでなければ救うのに時間がかかることになってしまいます。

 「阿弥陀仏、ここを去ること遠からず」(観無量寿経)です。

 南無阿弥陀仏という言葉となって、すぐそこで、ただ今救うと呼びかけられています。だから遠慮せずまかせきることです。

技術の進歩

 技術の進歩で、以前ならば検出されなかったような微量のものまで検出されるようになり、当局の指示もあって、このご時世、過剰かと思える対応に追われる現場の姿があります。

 しかし、決まったことであれば誠意を持って対応していくしかありません。

 さらに、今後出てくる新たな情報を注視していかねばなりません。そうなると、また違った対応をとる必要が出てくるかも…。

 これが正解、と言い切れない難しい問題が増えているように感じます。