念仏者 とんのつぶやき

往生浄土の身となり、日々のちょっとした思いを気の向くままに残しておきます

どんでん返し

 以下、ぼやきです。

 ようやく決まった話の、半分まるごとふりだしに戻るかも(-_-;)

 またやり直せばいいのですが、つぎ込んだエネルギーが(-_-;)

 こちらにほぼ非が無い、と言える内容なので(-_-;)

 でもノウハウはつかんだから、案外すぐにやり直せるかも…。

 半分は大丈夫なのだから…。

 ぼやきすぎ!

 諸行無常で、ものごとも自分の心もめまぐるしく変わるもんだなと思います。ものごとが大きく変わることもあります。タイトルのどんでん返し、もその一つかと思います。面喰います。

 ものごとも変わり、それをあて頼りにしている我が心も変わり続けとなれば、なかなか本当の安らぎというのは得難いものかと思われます。

 そういうふうに、「諸行無常」と聞くと悲観的なイメージがありますが、悪いことも続かないということも同様に言えるのです。しんどい状況でもそのうち変わっていくという捉え方も大事かなと思う次第です…。

 ただし、この世のことでも科学的な法則とか定理というのは諸行には含まれず、一般には変わらないものです。

 南無阿弥陀仏はもっとも勝れた法と言えるでしょう。南無阿弥陀仏のはたらきに一度まかせてしまえば常に救われています。

 そしてこの身このままで救われていくのです。なむあみだぶつ。

浄土に向かって行進

 生きるとは死に向かっての行進である、と聞いたことがありますが、あまりいい気がしません。

 死を嫌うのは全ての生き物の本能と言えるのかもしれません。どんなイメージか列挙してみます。

・考えてもあまり意味がない

・考えても暗くなるだけ

・こわい

・嫌なこと

・考えてどうにかなることではない

・死んで戻ってきた人は一人もいない

・わからないものはわからない

・それよりも(だからこそ)今生きることが大事

・限られた命と知り、精一杯生きる

・話題にすることではない

・宗教的な問題

・自分でコントロールできないこと

・死というのは概念であって、無い

・考えないようにしている

・死ぬまで生きる

・仕方のないこと

・それが生物(人間)というもの

・無関心

・死後は無い

 他にもいろいろあると思います。

 それに対して他力の信心を獲た人は、死ぬとは言わず、往生する、と言います。浄土に向かって生き、浄土に往生する身に転じた姿です。

 死にたくないのは煩悩ですから誰でも同じですが、浄土が開けてくる歩みこそ、真に生きる意義が見い出されてくるのだと思われます。

いつでもどこでもOK

 生き方、自己啓発、思考についての本でいろいろ学ぶことがありますが、著者が勧めてはいても、これが正解と言い切れる書き方はほとんどしてありません。学説や統計は説得力はあると思いますが。

 つまるところ、一人一人がよりベターと思える選択をしながら生きていくしかないのだと思い至ります。

 死生観についても同様かと思います。

 そういった中で南無阿弥陀仏のはたらきに生かされていることはとても有難いことだと思います。

 いつでもどこでも、なむあみだぶつ。一息つけることに感謝です。

歳とるだけでは意味がない

 昔はああだった、こうだったとばかり言っていては、最近勤め始めた若者にそっぽを向かれるだけです。

 その昔話の内容に含蓄があればまだいいのですが、それも無いとなると厳しいものです。

 過去は過ぎ去ったもの。今が大事です。割り切りましょう。老害に注意。私もそうならないように注意。

 (仕事のつぶやきです。いやこれは愚痴かも。それなら毎日でも書けるのですが…(笑))。

終活と遺言

 就活ならぬ終活という言葉がすでに定着した感があります。自分が死んだ後に自分のことで迷惑をかけたくない、残された人に幸せになってもらいたい、いろいろな思いがあってのことだと思います。

 私も今死ぬとなると残される家族のことを真っ先に考えます。大事な書類の保管場所や重要なパスワードの管理はざっくりですが済ませてあります。不要な私物はどんどん処分しています。

 間違いなく終活も大事ですが、浄土真宗に縁があったならば、肝心の我が身の後生は本当に大丈夫かどうか、自分の心の内を是非とも正直にみて頂きたいと思います。

 今死んでも大丈夫ですか?後生は一人一人のしのぎ、こればかりは代わりが利きません。

 私の後生は阿弥陀様にまかせてあるので何の心配もありません。そういう意味では私自身の終活と言ってもいいかもしれませんが、それはすでに済んでいます。

 南無阿弥陀仏のはたらきをよく聞いて疑いない身になってください。これが私の終活の言葉です。

摂取不捨(せっしゅふしゃ)

 どんなサービスでもまかせることは基本的に楽ですが相応の対価を求められます。それでも稀にトラブルや事故があったりします。

 そのための契約、覚書、保険、保証、…いろいろな手続きをしたり要求されたりします。やはりお互い心配があるからですよね。

 当然と言えば当然のことですが、生きること自体なかなか大変なことなんだと思います。昔は無かったであろう面倒なこともあるんだと思います。

 他力の信心(阿弥陀仏よりいただく信心)は全くの心配いらずです。私がどんな目に遭おうが信心が崩れるということが無いからです。先の言葉でいえばトラブルや事故が絶対に無いということです。

 「摂取不捨」と言って、1度救われた(摂取)ならば決して捨てられることのない(不捨)のが南無阿弥陀仏です。そしてそのはたらきに疑い無い(まかせ切った)のが他力の信心です。行き先は浄土と決まります。

 次の瞬間何が起きるか分からないような、人生そのものは全くかわらないのですが、他力の信心が1本筋を通したように貫いているのです。

 こんな不思議な力強い救いは他にはありません。 

人間って難しい

 救われたからといって、浄土真宗の知識や学問は何ら変わりません。本願に対する疑いの心が無くなっただけです(このだけ、が実に有難いことではあります)。

 勉強したり経験を積んだりしないと何も身につかないのはどの分野でも同じかと思います。

 端的に言えば救われている人であっても、浄土真宗の教義について解釈の間違いがあれば、それはそのままということです。間違いを自ら気付くか、他人から気付かせてもらうことです。

 特に浄土真宗では、解釈の間違いを指摘されたならば謙虚に受け入れる姿勢が大切かと思います。救われたと言っても全くもって南無阿弥陀仏のはたらきであるからです。

 しかしながら、振り返るところの味わいは人それぞれです。そこに正しいとか間違いとかはありません。それはその人の思いです。他の人にも当てはまる、そういうものではないということです。

 とは言っても我が強いのが人間というもの。異安心が出てくる要素はいくらでもあるのです。