念仏者 とんのつぶやき

お慈悲に包まれた日常と、浄土真宗の救いを綴ります^_^

行信不離ということ その4(信のこもった念仏)

 『法然上人も親鸞聖人も、念仏一つを勧められました。親鸞聖人は念仏でも「信のこもった念仏」を勧められました。』

 もうお一人の先生が浄土宗の方に、僅かな時間でしたが、このように話されるのを側で聞いていました。

  何と端的な表現か。しかし、当たり前のことと言ってしまえば至極当たり前のことでしょう。

 およそ16年も前のことですが今頃になって想い出されます。この時代だからか知らんけど。

 信心のこもったお念仏。それはたった一声称える南無阿弥陀仏で十分過ぎるほどに疑心無く明らかであります。またそれは、南無阿弥陀仏、ほんまやねえ、と互いにしっくりと喜び合えるものでありましょう。

 つまり、私の信心と言っても南無阿弥陀仏以外に何もなく、国語的にはどうかもですが、信心、それはお念仏で明らかなのでありました。

行信不離ということ その3(ただ念仏、ただ信心)

 「ただ念仏」について、

極重の悪人はただ仏を称すべし

正信偈) 

極悪深重の衆生

 他の方便さらになし

 ひとへに弥陀を称して

 浄土にうまるとのべたまふ

高僧和讃

 しかし一方では、

速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり

正信偈

涅槃の真因はただ信心を以て

教行信証信巻)

 歎異抄では、

ただ信心を要とす

(第一条)

ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし

(第二条)

 これらから導き出されるのは、

往生の因は念仏、つまり称名正因。

往生の因は信心、つまり信心正因。

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Q:どういうことですか?

A: ただ仏を称すひとへに弥陀を称してただ念仏して。ここに信心が含まれているのです。つまり「念仏一つが信心」ということです。

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 このことを分かりやすく末灯鈔 には、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。

 親鸞聖人は、「念仏一つ」にも「信心あさく」の自力信心(念仏)と、「ふかく信じて」の他力信心(念仏)があると峻別されました。

真実の信心は、必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり

教行信証信巻)

 「念仏一つ」と信じて称える念仏に、自力もあると釘を刺されています。

とんのつぶやき

 学びと、そこからの考察を書きました。また忘備録として後から振り返って再考できるようにしました。

行信不離ということ その2(信順)

  信心(信)と念仏(行)について親鸞聖人は、

信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

親鸞聖人御消息)

 と仰られていることを以前も書きました。

 兎にも角にも、ただ念仏一声でも十声でも称えましょう。18願を念仏往生の願とも言われます。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

行をひとこゑするとききて疑はねば、

 自ら称え聞く南無阿弥陀仏微塵も疑い無い。 念仏する人の中に自力もありますよと峻別されたのが親鸞聖人でありました。

行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

 はいそのように受け取りました。ではどうしましょう?

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

教行信証総序)

 親鸞聖人は行を獲ば、と書かれず信を獲ば、とも書かれず、行信を獲ば、と仰せです。

遠く宿縁を慶べ

 はい仰せの通り宿縁を慶ばせて頂きます。南無阿弥陀仏

忘れてた

 こんなところにアルバムが置いてあった。

 こんなところに加湿器が置いてあった。

 こんなところから諦めていた鍵が出てきた。

 あれもこれもなんで、、。と言ってもこんなところに置いたのは間違いなくいつかの私。

 忘れてた モノを減らして整頓し おまけにココロもすっきりと

 お念仏も忘れてた。

 すぐに南無阿弥陀仏ですね。行じ易い。

 聞即信。称え聞く南無阿弥陀仏に疑心ない(そのまま聞いている)のが信心、往生の正因でありました。

 称即名。そうして称える南無阿弥陀仏がそのまま私を助ける法でありました。

 念仏の無限の循環がそこにある!。ただし『絶対に負けられない戦い』のような力みはそこには少しもありません^_^。

 お念仏すら忘れても いつでも弥陀はお呼びづめ そのまま浄土におまかせよ

其の名号を聞いているのが信心

 以下、先生の法話の1部抜粋です。前後のお話の流れもあるので、全くそのままではありません。その上で。

(信心が崩れたという質問。疑蓋についてのお話から)

信心と言うのは、其の名号を聞ているのが信心なので。私(の側)からすると、聞いているだけなんです。聞いているだけだから、私が何かを貰っている訳ではないんです。貰っているモノが無い以上は、握っているモノも無い訳なので、壊れるモノも無いってことです。

「お前、浄土へ行けると言っているけど本気で信じているの?」と仮に言う人があっても、「私が言っていることじゃないんです。阿弥陀様が仰られているんですよ。南無阿弥陀仏と私を呼んで下さっているから、いかせてもらえるということなんです」。

これが崩れないと言われる所以なんです。呼ばれているから、つまり名号によって呼ばれているので、それを聞いているので、参らせてもらえる、と言うのが信心ということです。

信を賜ると言っても、中身は法を賜るということ。法を受けたのを信心と言うのであって、信心と言う何かモノを賜るのではないのです。じゃあ法とは何ですか、と言ったら名号という法の話(こと)です。必ず助けるぞ、という法を私が聞いている、ということなんです。

(その後も続きます)

 身内お同行の声かけもあり、怠け者、後半だけですがようやく視聴させて頂きました^_^。

 懐かしくもとてもありがたい内容でした。紹介して下さったお同行に感謝致します。

片付け

 家の裏にある物置きの中を片付けました(運び出しだけお手伝いしました)。

 その1つに停電で電気が使えなくなった時に備えて、灯油式のストーブを保管していました。知人からかなり前に譲り受けた大きめのストーブですが使用する機会はありませんでした。それはそれで良かったのだと思います。今後検討して、よりコンパクトなものを屋内に備えようかと思います。

 屋内においては、地震で家の中にあるものが崩れたり倒れたりすることで被害を被ることもあります。モノの補強も必要ですが、モノ自体を少なくすることのメリットも大きいかと思います。

 日常においては仕事の読み物が散らばってくると、何か必要以上に追われているようで、いい気になれません。読む気が無いのなら書棚にしまうのではなく思い切って捨ててしまっても意外に困らず、むしろ気持ちが良いかもしれません。

 あらゆる情報が紙媒体からiPadなどタブレット端末に収まり、情報取得もメールやQRコードにどんどん置き換わっています。モノ減らしの手段もその流れに上手く乗っていきたいです。

 空っぽになって往きたい。ささやかな生き甲斐です。

御袖すがりに想う

 15年ほど前のことです。

 母が住む◯◯県へ先生と2人で訪れて、母と私と先生での聴聞のご縁がありました。母から質問が出ました。

五帖目第十二通、御袖すがり

なにのやうもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、 

 このお言葉について、

母:御袖にひしとすがる、分かりやすいですね。

先生:分かりやすいですね。阿弥陀仏を人に例えて着物を召しておられる。昔なら子供が親の袖を引っ張っておねだりなどしたのでしょう。

母:阿弥陀仏の御袖にすがればいいですか?

先生:そうです。すがって下さい。

母:本当にすがっていいですね。

先生:いいですよ。遠慮せずに。阿弥陀仏がすがりなさいと言われています。ひしとすがって下さい。

母:分かりました。

 正確には覚えていませんが、概ねこんな感じのやりとりを私も横で聞いていました。母はこの日のご縁をとてもよろこんでいました。

 それからしばらく経った日の夜、母から連絡がありました。

 「信心決定したよ。しばらく様子みていたけど間違いない」

 よろこんでいましたが冷静な口調でした。

 必ず救われるとお聞きしていましたが、たった一度のご縁で救われるとは。しかも共に聴聞していた母が。やはり驚きでした。母は阿弥陀仏の御袖にすがったんだ。本当に阿弥陀仏が現に働いて下さっているんだ。心から嬉しく、また頼もしく思いました。

 それとは裏腹に、実際問題として私はどうしたものか、未だ救われていない。母が羨ましい。焦りのような思いも込み上げてきました。後日先生に吐露しました。

 救われるのに人と比べたら先か後か、前後があるのは当然ですが、差は無いに等しい、必ず救われますと押し出して下さりました。

 次は私の番だと思い直したのでした。

 今にして振り返ると、大事なところを聞き分けるという意味で、母はとても賢かったのだと思います。